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刺繍に綴られた願い――二度目の時戻り、少しだけの勇気  作者: 赤城ハルナ


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『わたし』という存在

孤独なヒロインの独り言から始まります。

『このペンダントは必ず身につけているようにね。誰にも知られてはならないのよ』


 誰かがわたしにそう言った。

 誰なのかは分からない。

 その声と言葉だけがわたしの心の支え。


 わたしはその言葉をひたすら守り、紺色の古びたドレスの下に錆びついたペンダントを隠している。





「このハンカチの刺繍、数日で仕上げなさい!」

「……はい?」

「できなければ当分食事は抜きなんだから」


 ある日の夕方、屋敷のお嬢様がベッドで寝そべっていたわたしを見下ろして睨んだ。

 見事な金色の髪をした、目鼻立ちのはっきりした女性だ――陰気なわたしとは対照的に華やかさがある。


 このお嬢様は誰なんだろう?


 わたしが意識を取り戻してから季節が一巡したから、一年ほどたっただろうか。ずっと狭い部屋に閉じ込められたまま、ときどきお嬢様から仕事を言いつけられる。

 刺繍・静物画・詩作、そして学院の課題……。

 どうしてわたしがお嬢様のためにそんなことをしなければならないのか。その理由を知らせてもらえずに、わたしは狭い部屋でひたすら縮こまる。


 白いハンカチにはコマドリの図柄。

 わたしが好きな――そうか、わたしは小鳥が好きだったんだ。

 チャコールペンシルで描いた図に沿って、コツコツと刺繍を刺す。われながら上手いと思う。

 きっとわたしは刺繍が得意なんだわ、その間だけは嫌なことを忘れられる。


 そもそもわたしはどこの誰なのか分からない。

 どうしてこんな狭い部屋――屋根裏部屋にいるのかも。


 わたしはこの屋敷の使用人なんだろうか。それにしては掃除や洗濯をしたことがない。この部屋から出たことがない――出られないのだ。

 扉は外鍵、天窓は届かない。脱出する術がない。


 お嬢様の言いつけ以外何もすることがないから、ずっと屋根裏部屋でぼ〜っとしている。

 まともに洗っていない黒くてパサパサの髪。荒れた両手。着古したみすぼらしい服。

 わたしは誰?


 コツコツと、日中ずっと刺繍を続ける。この部屋には明かりがないので、夜は作業できないから。


 数日後の夕方、またお嬢様が来た。


「刺繍ができたんなら渡しなさい!」

「あっ……」


 お嬢様が、刺繍が完成したばかりのハンカチをわたしから奪った。


「明日は殿下とのお茶会なのよ、ウフフ……」


 はぁ……『でんか』って誰のことなんだろう……もしかしてこのハンカチは、『でんか』のため?





「ほら、今日の夕食だよ!」


 メイド服を着た本物の使用人が、屋根裏部屋に夕食を差し入れた。

 小さいお皿には茹でたじゃがいもがひとつだけ。それからピッチャーに入った水。薄汚れたコップとフォーク。


 ハンカチに刺繍をしてあげたのに、食事はいつもこれだけ。

 わたしの手首はがい骨のようだ。

 力が出なくなっているし、もうお嬢様の手伝いなんかやるものか。


 次の日の夕方、またお嬢様がやって来た。


「今度はこの課題を仕上げなさい。期限は明後日の朝までなんだからね」

「……」


 内容は……。


『アエネイスに関する一節を書き、その背景・情景を説明せよ』


『アエネイス』?

 有名な伝説のことだったかしら、うろ覚えだけれど。

 どうしてわたしがそんなことをしなければならないのだろうか、あの横暴なお嬢様のために。

 図書館で調べればいいのに。お嬢様って、お馬鹿さんなの?

 夜は暗くて文字が書けないから、このまま寝よう。


 わたしは狭くて壊れそうなベッドで横になった。なかなか眠れないし、寝返りするたびにギシギシうるさいし、お腹が空いて死にそう。


 朝になったのか、暗い部屋に薄明かりが射した。しばらくして階段を駆け上る音がした。

 夕べ渡された課題は白紙のまま。


「何も書いていないじゃない! 使えない子! 明日の朝までに仕上げなかったら当分食事は出ないわよ!」


 騒々しく現れたお嬢様に殴られ、床に倒れたかと思うと、脇腹を蹴られた。


 酷い。

 これでもレディーなの?

 痛いし、力が出ないし、起き上がれない。


 なぜわたしは屋根裏部屋に幽閉され、奴隷みたいなことを強いられているのでしょう。訳がわかりません。

 言いつけを守らないと食事を抜かれたり身体を洗えなかったり――洗うといっても、水の入ったタライとタオルを差し出されるだけ。その水で服を洗うだけ。

 今まで何とかこなしてきたけれど、もう限界。


 ムカついたので、ハンストをすることにしました。


 どこの誰か分からない『わたし』、そして皆さま、さようなら。


《……ィネス……》



【それから十日ほどたった嵐の夜、ペンダントの光に包まれながら少女は死んだ】



◆ ◆ ◆



「このハンカチの刺繍、数日で仕上げなさい!」


「……はい?」


 床に倒れたまま起き上がると、お嬢様がわたしを見下ろして睨んだ。

 また?

 わたし、ハンストで死んだはずでは?


「ほら、さっさとやりなさい、でないと今夜も夕食抜きなんだからね!」


 はぁ……。


 わたしはまた訳の分からないことをやらされるのか。

 また『でんか』のために? 『でんか』って誰?


 前回と同じコマドリの刺繍を刺しながら考えた。

 もうこのまま死んだ方がいいのでは?

 誰のためなのか分からない刺繍なんて、やらない方がいいのでは?


 仕上げた刺繍入りハンカチを小さな机の上に置くと、わたしはベッドに横になった。


 どこの誰か分からない『わたし』、そして皆さま、さようなら。


《……ィネス……勇気を……出して……》



【お嬢様の命令を無視して眠り続けた少女は、嵐の夜、ペンダントの光に包まれながら死んだ】



◆ ◆ ◆



「このハンカチの刺繍、数日で仕上げなさい!」


「……はい?」


 床に倒れたまま起き上がると、お嬢様がわたしを見下ろして睨んでいた。


 また?

 刺繍を頼まれるのは三回目なんですけれど。

 わたし、餓死したはずでは?


「ほら、さっさとやりなさい、でないと今夜も夕食抜きなんだからね!」


 際限がない。

 無限ループ。

 どうしてこんな『時戻り地獄』のようなことに?

 死んでも死ねないなんて。わたしの苦しみはどこまで続くの?





 二度目の時戻り、わたしはようやく前を向くことにした。


 なぜこのような現象が続くのか?

 死んだら終わりではないのか?

 わたしはどうすればいいんだろうか?


 考えよう、考えるのよ。



《……ィネス……勇気を……出して……》

次回は『でんか』視点です。

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