第三話 「諫めの文」
承久3年5月中旬、評定の結論を受け、八咫彦が帝へ返す文を固める。文には「今は戦の時期ではない」「今戦えば世情が乱れる」の二つが書かれ、十文字 倭の検証の紙が添えられる。評定では文の字句を巡って五羽の烏が意見を出し、文は影の者(七)が商いの道で京まで運び、帝の政務の机に届ける。文を返した後も京では戦の準備が止まらず、烏たちは帝の返事を待つ。
登場人物 八咫彦(宗家)。十文字 倭(情報と分析)。鷲尾 為景(政務と均衡)。諏訪 之忠(実力行使と戦)。瀬戸 嘉衛(財と物流)。八重樫 詞房(外交と交渉)。影の者(七)(藍色)。影の者(伍)(緋色)。
【場面①】 承久3年5月中旬 八咫烏の社・評定の間
朝。評定の間の机の上に、八重樫 詞房が書いた文の下書きと
十文字 倭が清書した事実の紙が並べられていた。
朝の光が東の御簾から斜めに入り、紙の面を白く照らしている。
香炉の代わりに置かれた燈明の火は朝の内に消され
間の中には紙と墨の匂いだけが残っていた。
床の五色の符は、持ち主の帰りの順に揃えられ、北の壁の黒い羽の下で
前日と同じ位置に置かれていた。
五羽の烏がそろい、八咫彦が文の下書きを持ち上げた。
八咫彦:「読み上げます。『院の仰せ、承りました。
されど、様々な検証の結果、今は戦の時期ではありません。
東国の兵の数、上洛の速さ、民の向き、いずれも計れません。
今戦えば、勝敗が決まらないどころか、敗戦が濃厚です。
さすれば世情が乱れ、税と労役の道は絶え、村は兵の通る先で疲弊します。
どうか、挙兵するのを少しの間待ってください。
その間に、東国の実を計り、勝敗の見込みを帝へ奏上します』。
ここまでです。以上で、間違いないか。」
十文字 倭:「事実の部分は、添えの紙と一致しています。
数字と家名は、過去の記録のままで、書き足していません。」
八重樫 詞房:「東国の網を西へ広げるのに要する時間が必要です。
ただし、それを文に書くと、我々の仕組みの一端が文に残ります。
文は、帝の手を離れる可能性がある。
書かないほうが良いと判断しました。」
諏訪 之忠:「『勝敗の見込みを奏上します』までで止める選択もあります。
文の字数は少なくなり、読み手に残る言葉も短くなります。
約束の形になりますが、守れる保証のない約束を
文に残すべきではありません。」
八咫彦:「帝は、止める理由を知りたいだろう。
時期を指定すればいいのだろうが、それは約束できない。」
八咫彦:「この文は、帝の判断を止めるための最後の文です。
文書を清書させます。影の者(七)。」
間の外から影の者(七)が入り、頭を下げた。
【場面②】 同じ日の昼 八咫烏の社
影の者(七)は、詰所の机の上で、文を清書していた。
窓の外では、明け方から使った馬が庭の木に繋がれ、鼻息を落として立っていた。
薄い奉書紙に、細い筆で、一字ずつ書いていく。
隣の机には、畳んだ事実の紙と、桐の箱が置かれていた。
箱の紐は新しいものに替えられ、結び目に下げる小さな木札は
名の書かれていない白いままだ。
すき間から入る風が、机の上の紙の端を小さく持ち上げては
落ち着かせていた。十文字 倭は入口の柱の傍に立ち、書き上がりを見ていた。
影の者(七):「清書が終わりました。御確認ください。」
倭は文を取り、事実の紙と並べて読んだ。字の並びに、間違いはなかった。
十文字 倭:「文と添えの紙で、内容にずれはありません。箱に収めてください。」
影の者(七):「京へは、どの道で帰りますか。」
十文字 倭:「伊勢路を通る商いの道です。
箱は商いの荷の定めの場所に預け、京の側で受け取ります。
受け取った者は、箱の中身を知りません。
政務の机に箱を届けるまで、誰も開けません。」
影の者(七):「承知しました。明け方に出ます。」
倭は箱の紐を結び直し、影の者(七)に手渡した。
紐の結び目は、一度解しても、もう一度同じ形に結べる。結び方を決めてある。
十文字 倭:「今更言うことではありませんが、途中で箱を開けないこと。」
影の者(七):「承知しております。帝へ、確かにお届けします。」
影の者(七)は箱を背負い、詰所を出て行った。
倭は机に残り、報告の紙に京までの道のりの日数を書き込んだ。
伊勢路を商いの道で二日。京に入ってから、政務の机へ箱を届ける。
文が帝の目に触れるのは、遅くとも三日後だった。
【場面③】 三日後 京・大宮通の裏の小路
京の北面の詰所の外は、人で埋まっていた。
承久3年5月半ばを過ぎ、北面・西面の武士の人数は日ごとに増え
詰所の前の庭には、鞍を置いた馬が立ち並んでいた。
武士たちは、上皇の書を懐に入れ、通りを歩く者同士で互いの顔と名を確かめ合っていた。
日が傾くと、庭の馬の足元に土煙が立ち、詰所の声は通りまで漏れていた。
その中を、影の者(七)が、商の下男の身なりで荷車を引いて通った。
荷車には、京の問屋の荷物が積まれ、その一角に桐の箱が包まれていた。
影の者(七)は、大宮通の裏の小路で荷車を止め、汗で張った袖を一度緩めてから、包みを解いた。
桐の箱を懐に入れ、歩いて院の御所の裏手へ回った。
帝が政務を執る間の戸は、昼の内に一度、開け放たれていた。
影の者(七)は、政務の間に人のいない時間帯を狙って間に入り
政務の机の上の白い布の上に、桐の箱を置いた。
箱の位置は、机の東側、帝の文が重ねられた隅の先だった。
置いた後、影の者(七)は一度だけ頭を下げ、人の流れに紛れて御所を出た。
裏手の小路には、昼過ぎの光が石の面に落ち、通りかかる人が誰も
影の者(七)の顔を見ていなかった。
その袖の中では、藍色の符が、体と一緒に動いていた。
政務の間には、誰の目も残らなかった。
箱が置かれたことに気付く者は、その日、誰もいなかった。
【場面④】 翌日 八咫烏の社・評定の間
評定の間には、五羽がそろっていた。
朝の空気は乾き、昨夜までの湿りが床の木から消えていた。
机の上には、文の下書きの写しが一枚、伏せて置かれていた。
写しの紙の端は、幾度も開じた跡で柔らかくなっていた。
間の外の廊下では、影の者(伍)が東海道から戻る次の報告を待ち、東の空を向いて立っていた。
八咫彦:「文は、昨日の昼、帝の政務の机に届きました。
報告は、今朝、ここへ届いています。次は、帝の返事を待ちます。」
鷲尾 為景:「帝が文を読めば、返事は十日以内に来ます。
読まずに置けば、返事は来ません。
返事が来ないこと自体が、返事になります。」
諏訪 之忠:「返事が来ない場合も、東国の準備は進みます。
我々は、帝の返事の有無に拘わらず、東国の報告を集め続けるべきです。」
八咫彦:「その通り。東国の内偵を続けます。
影の者(伍)には、東海道の橋と宿の様子を
一段深く見るよう命じています。兵の動きは、橋と宿に先に出ます。」
十文字 倭:「帝の返事の期日は、十日として、記録に残します。
十日を過ぎても返事がなければ、文は読まれなかったか
読まれても動かなかったと考えます。」
八重樫 詞房:「どちらであっても、我々の動きは変わりません。
動かず、見続ける、です。ただ、京の書が武士の家々に回される速度は
文を返す前より上がっています。
帝の周りには、兵を挙げろと言う声が多くなっている。
文が帝の判断を止められるかは、まだ分かりません。」
八咫彦:「止められなかった場合も、考えます。
次の評定で、その話をします。」
評定はそれで終わった。五羽は順に間を出ていった。
倭は最後に残り、伏せて置かれた文の写しを持ち上げ、もう一度読んだ。
文の字は少なく、数字の部分は添えの紙に任せてあった。
倭は写しを机に置き、間を出た。廊下の外では
影の者(伍)が西の空を向いて立ち、東海道から戻る次の報告を待っていた。
山の向こうの空には、雲が高く積もり、季節の変わり目の風が、社の杉の梢を鳴らしていた。
参考資料
・『吾妻鏡』承久三年五月条(幕府側の記録。十三世紀後半に成立)。
・『承久記』(乱の経過を記す軍記。室町時代に成立)。




