湯乃香
『おお、啓示か。すまんな』
じいちゃんが軽く、とてつもなく軽く謝ってきた。
朝のばあちゃんの話の通り、飲みすぎて愛子おばさんが出産で里帰りすることを忘れてオレに来ていいと言ってしまったのだ。その後、家に電話してきたらしいがオレたちはすっかり寝てしまってたし、翌朝も六時前には家を出ていた。
「じゃあ、やっぱり今夜は泊まれないってことだね」語尾はほとんどため息になった。
『まあ、もうせっかくこっちまで出てきてるんだし、知り合いの旅館を取ってやるから、そっちに泊まればいいよ』
「えっ、いいの?」
こんな三連休の初日に当日予約なんかできるんだろうか。
『あんまりいい部屋じゃないかもしれんけどな。手続きとか支払いとかは全部こっちでやっとくから』
電話の様子では既にかなり飲んでいるようだ。恐らく愛子おばさんの旦那さんを交えて昼からずっと宴会になってるんだろう。
受話器を置いて電話ボックスを出た。
「で、結局どうなったの?」
隣で聞いてたフッカも展開に付いていけてないようだ。
「伊香保宝仙だって……」
フッカにパンフレットの地図を見てもらって、じいちゃんから指定された旅館を調べると、石段街から少し離れたエリアにその名前があった。
オレたちは、その旅館に入る前に石段街口のコインロッカーまで荷物を取りに行かねばならなかった。
「伊香保宝仙ってどんなだと思う?」
とりあえず、今夜の寝床が確保できてほっとすることができた。
「なんかね、傾いてるの」
石段街口からの道すがらフッカも饒舌になっていた。
「傾いてるって?」
「押入れの襖がね、ガタガタいうの、閉めても隙間が空いちゃって」親指と人差し指で隙間を作って顔の前に差し出す。
それはオレの部屋だ。
「なんかありそうだな、それ」
じいちゃんが急ぎで空いてるところを探したあんまりいい部屋じゃない旅館ということにオレたちの想像は膨らんで大笑いした。
どんな部屋だって、雨露がしのげればいい。それに、伊香保の旅館ならいくらなんでも風呂は温泉だろう。
盛りに盛って盛り上がる話でたどり着いた旅館はオレたちの期待を裏切って、決して傾いてはいなかった。
古びた風情の和風建築の正面玄関は両開きの分厚いガラスの自動ドアで、それが開くと広々としたロビーが柔らかな間接照明に照らされて穏やかな癒しの空間になっていた。
もう、それ以上はオレの語彙では表現のしようがない。
「すごいね……」
フッカの評価が的確だ。
オレたちが中に入るとすぐに係の女の人が「いらっしゃいませ」と寄ってきた。
小学生ぐらいの子供の二人連れということで、誰かの連れの者かと思われたようだが、おどおどするオレをよそにフッカが「さきほど野木から予約させていただいた高森という者ですが」とじいちゃんの名前をスラスラと出すと、ロビーの空いたソファーに案内された。コイツは意外と大物だ。
オレはフッカの使った言葉を反芻して頭に刻んだ。この次はオレがカッコよく使おう。
広いロビーには多くの宿泊客がソファーに座ってチェックインの手続きをしているようで、係の女の人が忙しそうに動いている。
ソファーはデカくてふかふかで居心地が悪い。フッカもしきりにお尻の位置を直している。
座り心地が悪いのではない。オレたちが場違いなのだ。
しばらく待つことになりそうだと覚悟したら、すぐに係の人がお茶を持ってきた。
おばさんではなく、お姉さんと言って間違いないぐらいのひとだ。
体型からふところぴょんを思い出す。多分、年齢もそれぐらいなんだろう。ころぴょんとの違いは、綺麗な顔立ちをしていることだろうか。
オレたちの前で膝を付いて「お待ちしておりました」とお茶をテーブルに並べる。それで胸元からカードとペンを差し出してきた。
宿泊者カードとあるそれに名前と住所と連絡先を記入する。連絡先は迷ったがじいちゃん家の電話番号でいいだろう。いまどき、携帯番号を書かない客なんかいないだろうが持ってなければ仕方がない。
カードを渡すとお姉さんはまたフロントへ小走りに向かった。
その背中を見送る。こういう人を中居さんというのだろう。
「ニシウラさんって、なんか北倉先生に似てるね」
フッカが前屈みに顔を近づけてきた。
「ニシウラさん?」制服の胸に名札があったが、フッカはちゃんとそれを見ていたらしい。オレは緊張してそれどころではなかったのに。
見ているとニシウラさんは他の仲居さんたちよりも幾分若くテキパキとしている。
戻って来ると部屋の鍵を握っていた。
「本日はあいにく別館のお部屋しか空いてませんで、申し訳ございません」
確かに胸の名札には〝にしうら〟とひらがなで書かれていた。多分〝西浦〟なんだろう。彼女の先導で別館へ向かうことになった。
「お荷物、お持ちします」西浦さんはオレのリュックとフッカのボストンをヒョイと手に提げる。自分で持ちますとバッグに手を伸ばそうとしたら、フッカが「お願いします」と上品に頭を下げた。フッカはこのラグジュアリーな雰囲気にまったく飲まれてないようだ。これじゃ、オレはまるっきりママにくっついてるボクちゃんじゃないか!
西浦さんに案内されて歩く長い廊下が旅館の大きさを示している。山小の校舎よりもでかいのは確実だろう。
途中、大浴場の場所を示され、別館からは遠いので不自由をかけるというようなことをいわれたが、なるほど、渡り廊下を通り日本庭園の脇を抜けた先の別館はフロントからは隣の旅館に行けるほど十分遠いと感じるものだった。
「あいにくそこしか空いてなかった」ということは、残念な部屋なのかも知れない。騒がしい小学生を閉じ込めておくのに最適な隔離された布団部屋か物置が頭に浮かぶ。
ようやくたどり着いた別館の入口にはテーブルに使えそうなほど巨大な無垢材を使った看板に『宝仙別館 湯乃香』とある。
湯乃香って文香に似てるじゃないか。これは、いいね! だ。
「湯乃香だって」
「ほのかじゃないよ」
イタズラっぽくオレを見上げるフッカはやはり根に持つタイプだ。もう絶対に浮気はしないと心に深く刻み込んだ。
「こちらの看板は野木先生に書いていただいたんですよ」西浦さんの案内にオレたちはびっくりして看板を二度見した。右下に名前らしきものが書いてあるが達筆すぎて読むことができない。
通された部屋は、和室の二間続きで子供なら十人は合宿できそうな広さがある。窓際のカーペット敷のスペースにはソファーとテーブルが置かれて景色を見ながらくつろげるようになっていて、外に面した広い掃き出し窓を開けると、濡れ縁の向こうは和風の坪庭で、さらに遠景には雪をまとった山々を臨んでいる。
浴室は庭に面した半露天になっていて、ここにも温泉が引かれているらしい。
「あいにくウチは白銀の湯の方しか引いておりませんが」伊香保温泉には泉質の違う黄金の湯と白銀の湯の二種類のお湯があるのだが、西浦さんの話では、この旅館は白銀の湯だけを引いているのだという。だけど、この設備にはもう何も言うことはない。
西浦さんが客室内を簡単に説明したあと、お茶を入れてくれて、一通り館内の案内と食事の時間を説明する。夕食は十八時から、朝食は八時から、本館二階の食事処でとる。大浴場の利用出来る時間と男女の浴室の入れ替え時間など、結構覚えることが多いと思いながら聞いていたが、最後に「こちらの案内にも書いてありますので、ご覧になってください」と言うことだった。
西浦さんが引き上げてからオレたちは室内の探索に回った。あらゆる戸を開け、イスの座り心地を確かめた。
なんと言っても、お風呂がすごい。脱衣場からガラス戸を引くと、そこはもう半分外だ。風呂の上は東屋のような屋根がある。木で造られた湯船は大人が何人か入っても余裕がありそうな広さだ。
ここにフッカと二人で入ることを想像するだけで熱が出てぶっ倒れそうだ。
フッカも湯船に手を浸けて湯を掻き回してはしゃいでいる。
このあとフッカをどう誘おうかと思いながら客間に戻ると、部屋をノックする音が聞こえた。
部屋に入ってきたのは綺麗な着物を着たおばさんだった。オレとフッカはその人の姿に慌てて正座した。
この旅館の女将だというその人は、ガチガチになってるオレたちに座椅子を勧めて楽にするように言ってくれたが、脚は崩せても気持ちは崩れない。フッカなんか座椅子に正座だ。
柔らかな物腰に穏やかな言葉遣い。口元には笑みを絶やさないのだが、これからお説教が始まるような緊張感を感じてしまう。
女将さんはオレたちが小学生だということに関係なく――それでも少し噛み砕いた言葉で挨拶をすませると部屋を出ていった。
ドアの外に女将さんの気配がなくなると一気に力が抜けた。フッカは崩れるように畳の上に転がる。
「びっくりしたぁ、なにか怒られるのかと思った……」
フッカも同じプレッシャーを感じていたようだ。オレもテーブルに突っ伏した。
「野木先生って、ほんっとにお兄ちゃんのおじいちゃんのことだよね?
こうなんべんも野木の名前が出てきてはフッカだって疑問に思うのも仕方ない。
じいちゃんは何年か前までは地元選出の代議士だったんだけど、いろいろあって政治の世界に飽きたとかで若くして後進に道を譲ってしまったんだ。あの母さんの父親なのできっと人望はあっても世渡りは下手だったんだろうことは容易に想像できる。でも、政治家を引退したいまでも、こんな立派な旅館の女将さんに、お世話になってます、とか、先生、とか言われてるんだ。不倫親父とはえらい違いだと思う。あの看板のことといい、ひょっとしたら、オレたちVIP扱いなのかも知れない。
「なるべく大人しくしとこうな」
「そだねぇ」
旅館中の仲居さんたちに監視されているような気がしてきて、まるで職員室の中で待たされてるときのような気分になる。
以前家族で行った伊豆のホテルでは探検と称して一人で館内をうろついて回ったものだが、ここは部屋を出るのも気が引ける雰囲気だ。
夕食の時間までまだ1時間ちょっとあるから、一度大浴場を覗いて見るのもいいかもしれないんだけど。フッカが思い出したように荷物の整理を始めたのを横目に畳の上にごろんと横になってしまった。
「お兄ちゃん、朝だよ」
肩を揺すられ、フッカの声に目を開けた。
「えっ、朝?」
やばい、完全に寝てしまったらしい。
慌てて起き上がって周りを見る。部屋の明かりが点いてて窓の外は暗い。
「ウソ、晩御飯の時間だよ」
フッカの笑い声にほっとした。
自分では元気なつもりだったけど、早起きしての遠出と宿泊場所の件で疲れていたんだろう。ちょっと横になっただけのつもりだったんだけど。
「ほらほら、お兄ちゃんも着替えて」
フッカはもう浴衣に着替えていた。
「あ、可愛いな」
上手く着こなしている。
「さっき西浦さんが子供用のを持ってきてくれてね、着せてくれたの」
どうりで帯の結びもかわいい感じになっている。が、オレが居眠りしてるところを見られたのか。
「お兄ちゃんは大人の小さいのでいけそうだって言ってたよ」
フッカが畳まれた浴衣と帯を前に置いてくれた。
「じゃ、着替えるか」
立ち上がって服を脱ぐ。Tシャツとパンツだけになって浴衣をはおった。着慣れないので帯の結びが難しい。普通の蝶結びでいいか。
着替えの間、フッカは見ないように背を向けていたが、裸というわけでもないし、別に見られてもどうってことないように思うのだが、フッカも女子ということなんだろう。
「こんなもんかな」
フッカがこちらを向いて品定めをする。
「うん、カワイイよ」
「なんだよ、それ」
帯の蝶結びが合っていないのだろう、とは思う。西浦さんが着付けたフッカとは全然違うのは仕方ない。
フッカが家のサイフを持って、オレは部屋の鍵を持った。本館までの通路はちょっとした散歩だ。フッカが自然と手を繋いできた。
こういう和服のフッカも魅力的だ。
「フッカ、浴衣似合ってるよ」
フッカがにっこりと笑う。
「お兄ちゃんも」
「ほんとかよ」
どうみたって着慣れた感じではない。
でも、フッカがそう言うんだからそれでいい。もう、フッカだけがオレを見てくれればいいんだ。
握った手に力を込めたら、フッカが体をぶつけてきた。
庭園を臨む廊下のは誰もいない。
肩を抱いて優しく唇を重ねることもいまのオレたちには容易くできてしまいそうだ。だが、オレも負けずに体当たりだ。それが一番素直な気持ちなんだと思う。
オレたちは何度も体をぶつけ合ってふらつきながら夕食の会場に入った。
夕食の御食事処と言っても、イメージしてた大食堂ではなかった。
案内されたのは個室のテーブル席だ。並んだ料理にため息がでる。中居さんが料理の説明をしてくれたのだが、実の所、高そうな料理ということ以外よく分からない。テーブルに置いてある御品書きと料理を見比べてもよく分からない。
「すごいな、これ」
食い切れない程のボリュームに、二人だけになったというのに、小声になる。
「びっくりだね」
フッカも声を潜める。なんでオレたちひそひそ話してんだろう。もしファミレスでこの品数を頼んだら二度と連れて行って貰えなくなるに違いない。
並んだ料理を前に「いただきます」をする。
まず、食前酒の小さなワイングラスを手にした。フッカもグラスを手にするとオレの方に腕を伸ばす。オレも少し身を乗り出して腕を伸ばした。グラスを当てるのは良くないとも言うらしいけど、ここは当てたい気分だ。
澄んだ音が響く。
「二人のために」
カッコつけたオレの乾杯のセリフにフッカが笑う。グラスに口を付けると優しい甘さに心が和む。
「お兄ちゃん、酔っ払わないでよ」
「甘酒だぜ、酔わないよ」
グラスを空けて振ってみせる。
普通なら季節の果実酒なんだそうだがオレたちのは子供用のノンアルコールの甘酒になっている。フッカは多分甘酒では物足りないだろうけど。
「お兄ちゃん、酔うとすぐ寝ちゃうんだもん……」
フッカもグラスを空けて箸を手に取りながらブツブツという。昨夜の泥酔が余程気に入らなかったんだろうな。
「寝ないって」
だいたい、子供が酔っ払う状況になること自体おかしいだろう。
「今夜は寝かさないからね」
フッカが碗蓋を開けて煮魚を箸で突っつきながら澄まし顔でいう。
それはなかなかに嬉しい言葉だけど、オレの頭に浮かんだ意味とはかなり違うものなんだろう。
途中で、揚げたての天ぷらを持って、西浦さんが顔を出すと、フッカはさっきの浴衣の着付けのお礼を口にした。
「お兄ちゃんが可愛いって言ってくれたの」彼女をすっかり気に入ったみたいで饒舌だ。
明るく優しく品があって、ハキハキしてるけど控えめでそのバランスが絶妙、綺麗で可愛くて愛嬌があってきっと大人が見たら色気とかもあるんだろう。オレもそんな西浦さんを気に入ったんだけど、彼女と入れ替わるように登場した女将さんのにこやかな微笑みにお箸を持つ手が凍りついてしまった。
「ね、お兄ちゃん、これって〝良い警官・悪い警官〟みたいなやつ?」
女将さんが去ったあと、フッカが声を潜めた。
「そうか、オレたちに自白させるための〝オトシの罠〟か」頭の中に堂場瞬一が浮かぶ。
「お兄ちゃん、絶対しゃべっちゃダメだからね!」
「おう、わかってるよ。……で、なにを?」
「世界征服に決まってるじゃん」
フッカがニヤリと笑った。




