子授け
「このお湯ってずっと上から流れてんのかな?」
「…………」
「結構歴史ありそうだよね、パンフに書いてあったっけ?」
「…………」
「けど、天気よくて良かったよな」
「…………」
「ホント、フッカと来れてよかっ……」
「うるさい、静かにしろ!」
隣で石段を踏むフッカから罵声を浴びせかけられた。
石段を登るときに、
「石段はわたしが数える」と宣言したフッカだったが、わずか三十段足らずでイラついている。
オレが絶え間なく話し掛けているからだ。
でも、それも仕方ないことなのだ。
愛する女と逃避行の果て辿り着いた風情ある温泉街。重い荷物から解放されて代わりにオレが手にしているのは柔らかな女の手だ。誰だって心ときめく。世界中が輝いて見えるのは天気のせいだけじゃない。
フッカの横顔は真剣そのもので、それが余計にちょっかいを出したくさせるのだ。
このまま、フッカの誕生日段の二〇四段まで一気に進むつもりなのだろうか。
ああ、でも話しかけたい。
「あっ! フッカ、あれあれ」
石段の途中にある広場でフッカの手を引っ張って止めた。
「もお、お兄ちゃん! あんた、いつからそんなおしゃべりになったの!?」
あんた呼ばわりで睨みながらも小さく口の中でいまの段数を繰り返している。怒鳴っていても手は繋いでいてくれるのが嬉しい。
「でも、あれ……」
石段の脇に立っている石の道標を手で差した。
『伊香保温泉
これより石段
参百六拾五段』
「えーっ!」フッカの咆哮に近くにいたおばさんグループが注目する。
ここが石段のスタートなのだ。
気持ちはわかるが、音量は抑えた方がいいと思う。
「いままでの三十六段はなに!?」
聞いていたおばさんたちが「ほら、やっぱりそう思うわよねぇ」と、お互いに頷きながら笑っている。たぶんあの人たちも下から数えながら上がってきてたんだろう。
少し上の石段にはご丁寧に『7段目』のプレートが埋め込まれている。
そりゃ、みんなが石段を数えながら下を向いて黙々と歩いてたら沿道のお店は商売あがったり
だ。
「まあ、気楽に登れるんだから、何か食べ歩きでもしようぜ」
道標に向かって小学生らしい悪態をついているフッカに提案をする。
「食べ歩き!?」途端に期待に満ちた目で顔を上げる。
「温泉まんじゅうとか、あるんじゃないかな?」
「食べる食べる、行こう!」
オレたちは本当の最初の一段目を「せえの」で登った。
隣に笑いかけるとフッカもニコニコと返してくる。手を繋いで、笑い合って、一段ずつ登っていく。石段と一緒にオレたちの未来が空に向かって伸びてるみたいじゃないか。
「あかぎぃのみぃねぇにぃぃ、ひのぉひぃかぁりぃぃ」
「わたらぁせがぁわぁのぉ、たゆまぁぬなぁがぁれぇぇ」
二人で校歌を熱唱した。
名物という玉こんにゃくをかじりながら石段をのぼる。玉こんにゃくなら家でもたまに食べることがあるが、このサイズで串に刺したのは初めてだ。フッカもご機嫌。味が染みてて体もあったまる。
こんにゃく屋の向かいにあった雰囲気の良さそうな公衆温泉〝石段の湯〟はフッカの食欲にあえなく負けた。温泉饅頭を食べたいというのだ。
「こんにゃく手に持って入れないでしょう」って、そりゃそうだけど、これぐらいのこんにゃく玉、フッカなら秒殺で食い終わりそうなもんだけど。
あれほど温泉を楽しみにしてパンツ握りしめてたのに、看板を見ても興味なさげにスルーする。まあ、この先には有名な〝伊香保露天風呂〟というラスボスが待ち構えているらしいから、それを目指せばいいが、ころぴょんと親父の〝不倫饅頭食べ歩き〟によっぽど憧れてるのだろうか。言っとくけど、オレはもう女性問題は懲り懲りだからな。
「饅頭屋はどこじゃ!?」こんにゃくを食いながらフッカはオレに石段街のマップを見させる。伊香保では温泉饅頭を〝湯の花まんじゅう〟というらしい。なんでも、伊香保温泉は全国の温泉饅頭発祥の地なんだそうだ。
「結構上の方だよ」その湯の花まんじゅうの元祖という店はこの長い石段をほとんど上りきったところのようだ。
マップを覗き込んでしばらく饅頭にありつけないことにフッカが渋い顔になる。まさか饅頭食いたさに「石段を駆け上がる」なんて言い出さないだろうな。
「じゃあ、ちょっとお兄ちゃん付き合って!」オレの袖を引っ張って、いま来た石段を降りようとする。
「なんだ、やっぱり風呂か?」饅頭を諦めて一風呂浴びようって気になったのか。
「これ、もう一本食べていいでしょ?」串に刺さった最後のひと玉を口に押し込んで串を振り回す。
コイツにはやっぱり黙々と石段を数えてもらってた方がよかったのかもしれない。
途中の土産物屋や雑貨屋を覗きながら、のんびりと石段を上れるのは、きっとフッカのお腹が玉こんにゃく二本で落ち着いたからだろう。途中には湯の花饅頭を置いている店もあったんだけど、フッカのこだわりはあくまでも出来たてをその場で食べるという〝不倫スタイル〟のようだ。確かに土産物屋で箱に入った六個入りを買って食べても風情はない。
手を繋いで上る石段も二〇〇段が近づいて、休憩場所になる小さな広場に着いた。ポケットパークというらしい。
「もうすぐだよ」フッカのテンションが上がる。二〇四段目の誕生日の段が近いのだ。
この場所の石段にはこの地を詠んだ与謝野晶子の詩が刻まれている。文豪の愛した伊香保温泉というのは知っていたが、与謝野晶子は初耳だった。詩文に目を落としてオレのテンションも上がった。
「あった、誕生日!」七月二十三日はちょうど詩の刻まれた段のひとつ上で、ちゃんと二〇四段目を示すプレートご埋め込まれていた。
段の上で飛び跳ねながら「目標達成!」とはしゃぐけど、オレの誕生日も忘れないでいて欲しいと切に願う。
記念写真を下からのアングルで撮ると与謝野晶子の詩も入れることができる。通りかかったグループのお姉さんに頼んでツーショットも撮ってもらったんだけど、フッカがあんまりくっ付いてくるので写真の顔が赤くなっていた。
誕生日から数段上がったところに無料の足湯があって、そこに浸かることにした。ひと休みするには絶好のタイミングだ。フッカも足湯に入るのはいいらしい。おそらく饅頭を食いながら入れるからだ。
足湯よりさらに少し上がったところにあるパンフレットに紹介のあった店で出来たての湯の花まんじゅうを調達してきて、さっきの二〇四段まで戻ってもう一度饅頭を手にした記念写真を取り直す念の入りようだ。よほど温泉饅頭の食べ歩きに憧れを抱いていたんだろう。
三十段あまりの上下行ったり来たりに付き合わされて、ようやくオレは伊香保の名湯〝黄金の湯〟に足を突っ込むことができた。
「ん、かあぁっ、キんモっちいい!」冷えた足に温泉成分がじんじん染み込んでくるようだ。このまま肩まで浸かって百数えたい。
ここでフッカと並んで饅頭を食べるのもいい。饅頭を手に構えて隣を見ると靴下を脱ぎかけてモタモタしてたフッカがもう一度、靴まで履き直してる。
「ごめん、お兄ちゃんおまんじゅう買ってくる」
「えっ、どうしたの?」さっきまで饅頭を握ってたはずだ。
「なくなっちゃった」
やべぇ、コイツ、足湯に落っことしたのか。
オレがお湯の中を足で探ってるうちに、フッカは嬉々として石段に駆けて行ってしまった。
そうか、我慢できずに食っちまったのか。
どうでもいいけど、オレのリュックまで持ってくことないだろう。
「オレの財布使っていいからな!」一応、背中に向かって声をかけておいた。
「美味しかったよねぇ、これ」
汗ばむほど足湯を堪能したオレたちは、次の目標、三〇〇段手前にあるオレの誕生日段を目指していた。
フッカはニコニコとオレにくっ付いてくれる。ニコニコなのは手に湯の花まんじゅうを握っているからにほかならない。足湯上りでさっきの店の前を通ったとき、当たり前のようにもう一個を手にした。
ふかふかの皮に上品な甘さのこしあんがたっぷり詰まってて気に入ったんだろうが、三個目かよ。お昼時だし何処かでうどんでも食べようかと思っていたんだけど、これでは主食が饅頭だ。隣でこれだけ矢継ぎ早に食われると、見てるだけでこっちはお腹がいっぱいになってくる。
途中に見つけたうさぎの小物が沢山ある雑貨屋でフッカに和柄のヘアピンを買ってあげたのは、
「さんざん時間をかけて見て回ったあげく、なんにも買わないで出るなんてお店の人に悪いでしょ?」というフッカの意見があったからなんだけど、きっとそいつが結構高かったから最初はちょっと遠慮してただけでホントは買って欲しかったに違いない。なぜならお店を出るとフッカの密着度がさらに上がったからだ。こう好きな女の子に密着されると、ちょっと歩きにくくなってしまうのは、まあ男なら仕方のないことだろう。
石段もいよいよ終盤に差し掛かって、伊香保焼きの店と元祖湯の花まんじゅうの店に挟まれて、オレの誕生日段は危うく忘れられるところだった。何事も男の方の扱いが雑になるのは世の常ということか。
饅頭片手に伊香保焼きと呼ばれる巨大なタコ焼きを頬張るフッカの姿は見ているだけで楽しい。まるでグリーン牧場でヒツジの餌やり体験をしているような気分になれる。ヒツジの方が可愛い食べ方をするのかもしれないけれど、フッカなら許す。
「せえの」三六五段目を二人一緒に踏んで石段を上り詰めると、そこには伊香保神社がある。縁結びと子宝、安産の御利益があるという。
社殿の前で財布を出して賽銭の十円玉を摘み上げた。
「お兄ちゃん!」
隣を向くと、フッカが真剣な眼差しで百円玉をオレに差し出す。
「わたしたちの将来のことなんだから、十円なんてダメだよ」
言葉にかなりの力が入ってる。
「そっか、そうだよね、オレたちの未来なんだよな」
そう考えると、フッカの熱量が頼もしい。財布に十円を戻してフッカから百円玉を受け取った。
それで、社殿に向かって賽銭を投げようと構えた。
「こらこら、お父ちゃん」
止められて、また横を向く。お父ちゃんってなんだよ。そう呼ぶのはまだ早いだろ。愉快なヤツだな。
「わたしの」
フッカが手のひらを上に向けてオレの胸の前でゆらゆらと振る。
「はえっ?」
これはフッカのってことか? 手にしていた硬貨をフッカの手に乗せる。
「違うでしょ!」
呆れ顔で百円玉をオレの手に押し戻す。
「わたしのお賽銭でお兄ちゃんがわたしのお願いをするの。わたしはお兄ちゃんのお金でお兄ちゃんの分のお願いをしてあげるから!」
つまり、お互いが相手のお願いをし合うってことか?
「ああ、そうか、それいいな、フッカすごいよ、オレ、思い付きもしなかった」そんなこと前もってはっきり言ってくれなきゃ誰だって思い付くわけないだろ! という思いは胸の奥深くに沈めて、得意顔のフッカの頭をにこやかにグリグリ掻き回してやった。
百円玉を交換し合って、賽銭箱の前に二人並んで二礼二拍手。
フッカの叶えたい願いは……。
相手の願いを代わりに唱えるというのは、どれだけ相手を想っているかも試されてるみたいだ。フッカはどんな未来を夢見ているんだろう。オレはフッカのために何ができるだろう。
「お兄ちゃん、なにお願いしてくれたの?」
一礼がすむと、待ちかねたようにフッカが聞いてきた。
そういうの、言っていいのか?
「えっ、ちゃんと世界征服できますようにってお願いしといたよ」
「もぉ、なにそれ? わたし女王様じゃん」
結構ウケた。
「フッカはなに願ってくれたの?」
「ちゃんとお兄ちゃんらしく、エッチなことが出来ますようにって!」
「それって、叶えてくれそう?」
「残念でした、叶えてあげませんよーだ」意地悪そうに唇を突き出す。
「てことは、フッカと出来ますように、って願ってはくれんだ」
「違います!」
「でも、叶えてあげませんって言ってるのは、神様じゃなくてフッカなんだろ?」
フッカはそれに答えず、赤らめた頬っぺたを思いっきり膨らませて、睨みながらオレの手を握ると、オレのお腹をぽんと叩いた。
それで、あんがい本当にオレのためにエッチなことをお願いしてくれたのではないかと、にやけてしまい、今度はどんとキツめに鳩尾を殴られてしまった。
顔をしかめたら、フッカが満足気にニヤッとする。
とりあえず、願い事は叶うに越したことはない。
社殿のすぐ脇には御守りやおみくじなどを置いたスペースがあった。
「ねえ、何かおそろいのを買おうよ」
「そうだな……」
いままでもフッカと初詣とかに行ったことはあったが、おみくじは引いても御守りはなかった。二人の門出を神様に見守ってもらうのもいいかもしれない。
台の上に御守りや絵馬などが並べてある。無人販売のようにお金は横の料金箱に収めるシステムのようだ。絵馬は奉納するものなので買うなら持ち帰れる御守りがいい。
「これ、可愛いよ」
フッカが薄ピンクのお守りを手に取る。
「でもそれ、子宝のだぜ」
確かに色やデザインは可愛いが、表に『子授け守』としっかり刺繍が施されている。普通の御守りは赤と青の二種類があるので、そちらの方がいいのではないか。
「でも、将来役に立つじゃん」
「どんだけ先なんだよ」遠大な計画に感服する。それが役に立つのは、きっといままで生きてきた年数と同じぐらい先だ。
「あ、でも男の子が子授けはおかしいのかな?」
女の子でもフッカの年齢だとおかしい気がするが。
「まあ、そういうことは男と女が協力するもんだから、男が持っててもおかしくはないだろうけど」念のために練習だけでもしておくのもいい。
「そっか、お兄ちゃんにも頑張ってもらわないとダメだもんね。じゃあ、はい、これ、お兄ちゃんの分」
オレの少しエロい回答をさらりと受け流した上に倍返しのエロさで子授け守の一つをオレの手に押し込む。
それで、フッカは〝お家のお金〟から千円を抜いて料金箱に突っ込んだ。おそろいの御守りはうれしいけど、これは決して他人には見せられないだろう。
それから、オレたちは縁結びの絵馬を一枚買って二人で奉納した。
何を願おうか迷った挙句、結局書いたのは名前と住所だけだった。
フッカの「わたしたちもうすっかり結ばれてしまってるんだから神様にはごあいさつするだけでいいんだよ」という言葉は妙に納得できたが、近くにいた人からは不思議な視線を感じた。
さて、神様への子宝祈願が済んで、この先にはいよいよ源泉、伊香保露天風呂が待っている。
露天風呂に向かうフッカはご機嫌だ。天気もいい。景色もいい。温泉も大好物。
リュックには子授け守をぶら下げて――もちろんオレも付けさせられた――オレと手を繋いで、空いた手に饅頭を握っている。
今日、五個目の饅頭だ。
伊香保神社から散策路沿いに少し上がったところにある子宝饅頭――ほぼ湯の花まんじゅう――の店だ。ここも子宝だ。
もう、フッカはいつ子宝に恵まれてもおかしくない。さっきの『お兄ちゃんにも頑張ってもらわないと』が頭をよぎる。繋いだ手に自然と力が入って隣から睨まれた。
「あ、飲泉所だって!」
観光スポットにもなっている朱塗りの河鹿橋をランウェイみたいに二往復したフッカが目に付いた東屋に足を速めてオレを引っ張った。
そこで源泉が飲めるらしい。
そろそろ飲み物が欲しくなったんだろう。玉こんにゃくと伊香保焼き、温泉饅頭を数えればほぼ何かを食べ続けてるんだから。
備え付けのカップを注ぎ口からの温泉で満たし、一口飲んだフッカが泣きそうな顔になった。
オレもカップを受け取って口をつける。まあ、これは普通は飲むようなものではない気がする。
フッカは温泉の注ぎ口と並んだ水の注ぎ口のをがぶ飲みした。
こっちの水はまろやかな天然水だ。
飲泉は食後は避けるようにと書いてあったが、まあ、少しぐらいなら大丈夫だろう。饅頭の子宝効果は薄れてしまったかもしれないけれど。
たどり着いた伊香保露天風呂も、またまた子宝の湯だという。
いったい伊香保の神様はフッカに何人子供を産めというのだろう。オレは神様の期待に応えられるだろうか?
表に営業時間や料金が書いた看板が掛けてある。
「子供は……、二百円か……」こういう公共の温泉は子供料金が安い。ありがたいことだ。
さっそく中に入ろうとフッカの手を引いた。
「お兄ちゃん、入るの?」
フッカが入口で踏ん張った。
「えっ、入んだろ?」
ここまで来て、当然だろう。
そのためにタオルだってリュックに詰め込んだんだ。
フッカなんかタオルに着替えのパンツも包んでいた。ピンクのボーダーのやつだ。リュックに詰めるときちらっと見えた。間違いない。
「でも、中、別々だよ、一緒に入れないよ」
念を押してくるが、そこまでは望んでいない。というか、フッカはそれを望んでいるのか?
場所によってはフッカぐらいの年齢までは混浴できる所もあるらしいけど、もしそうだとしてもフッカの肌の日焼けのない白い部分を他の男に見せるわけにはいかないだろう。
「せっかく伊香保温泉に来たんだし、ざっと浸かるだけでもどう?」
オレは別に温泉ファンというわけではないが、伊香保に来て温泉なしというのも寂しいじゃないか。それにフッカは大の風呂好き、温泉好きのはずだ。オレの家の風呂に一時間も入るんだから温泉なら四時間はいけるんじゃないか?
「じゃあ、お兄ちゃん入ってきていいよ。私、ここで見張ってるから……」
フッカの顔に明らかな不安の色が浮かんでいる。入りたくない理由が何かあるんだ。
前に、湿疹であちこち掻き崩したようなことを言っていた。そういう傷を他人に見られたくないのだろうか。
でもそれならオレと入りたいようなことは言わないだろう。
オレなら見られても平気なのか?
いや「お兄ちゃんならどうせ他の部分に目がいって掻き傷なんか見ないでしょう」ってことか?
とすると、他の部分は見ても構わないのか……。
「……お兄ちゃん」
「ああ、ごめん」
だめだ、温泉は妄想がでかくなりすぎる。
「じゃあ、お風呂はじいちゃん家で入るとするか」
「いいの?」
仕方ない。じいちゃん家に行けるかどうかもわからないままなんだけど、仕方ない。
「ああ、よくよく考えたら風呂入ってる間フッカと離れるのは寂しいもんな」
そう、オレが見たいのはフッカの笑顔だ――もちろん他にもいろいろ見たいけど。
ほっとした表情になるフッカの頭をゴシゴシと撫で回す。
「天気もいいし、展望台でも行こうぜ」
「うん」
フッカが繋いだ手を引っ張って腕を絡めてきた。オレの腕にフッカの体が密着してくる。
それで、オレは上機嫌になって、もう一度、戻り道で子宝饅頭を奢らされることになった。
ちくしょう、オレは体力の続く限りフッカの子宝に協力するぜ!
伊香保の上ノ山公園展望台は物聞山の山上にあって麓の不如帰駅からロープウェイで見晴駅まで上がった先にある。
フッカはご機嫌を通り越してもはや有頂天だ。
どこかで遅めの昼飯を食べようか、という提案も、早くロープウェイに乗りたいと先に進むことを選んだ。
散々食べ歩きで饅頭を食ってるからお腹が空いていないのだろう。
それにしても、フッカがくっつく。
左腕をオレの腰に回して、空いた右手はオレの左手と身体の前で恋人繋ぎだ。それで、相撲のがぶり寄りみたいにぐいぐい引き寄せてくる。
二人の手で自由に動けるのはオレの右手だけだ。
その右手は、ときに看板を指さし、ときに切符を持ち、ときにガイドマップを引っ張り出したが、結局、おおむねフッカの背中に回して肩を抱き寄せるのに使われた。オレとフッカの間にはもはやコピー用紙一枚差し挟む隙間もない。
ほぼ一体化していると言っていい。
ロープウェイからの雄大なパノラマを眺めながら、フッカの頭に頬を寄せて髪の香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。
オレの身体の前で繋いでいるフッカの手が、ときどき微妙な部分に当たって、少し落ち着かない。
ドキドキしてたらフッカが首を伸ばして耳元に唇を寄せてきた。
そちらに頭を傾けると耳朶に彼女の唇が触れた。
「お兄ちゃん、わたしね、キミトとかでベタベタくっついてるカップルを見るたんびにね、恥ずかしくないのかなぁ、バカみたい、って思ってたの。でもね、いま、わたし、なんにも恥ずかしくないの。だってね、周りの人なんか全然関係ないんだもん。きっとわたし、その人たちが羨ましかっただけなんだと思う。お兄ちゃんと一緒にいたいだけ。お兄ちゃんが好き。大好き」
フッカがこんなにオレのことを思ってくれるなんて、夜中に想う妄想の世界の中だけだった。
首をひねって耳朶のあった位置に唇を運んだ。フッカと鼻先が微かに触れ合う。
「オレも、フッカのこと、世界で一番好きだよ」
フッカの瞳が大きく見開いて、2センチ先に熱い息遣いを感じるけど、さすがにここでは進めない。
「一番? じゃあ二番は? 三番は?」
意地悪な問いかけじゃない。答えをせがむような眼差しに顔を離してフッカの頬を撫でた。
「二番も三番もない、フッカだけだよ」
「あぁ、お兄ちゃん」
ため息でフッカがオレの肩に顔を埋めた。顔を離してなかったら、おそらくフッカはこの場で唇を押し当ててきてただろう。
いつもなら笑い飛ばすような芝居がかった大仰な台詞を二人とも笑わない。笑えない。
それほどに、迫るものを感じた。好きだという気持ちを怖く感じることが本当にあるんだ。
フッカがじっとオレを見つめている。
怖い。オレたち、ホントに小学生なんだよな。
あまりのムードに気圧されて、フッカから視線を逸らした。
「フッカ、ほら、あれ、谷川岳じゃないか?」
オレの言葉に窓の外に視線を移す。
「えっ、おぉー、すげーっ!」
遠方の雪をまとった山系に、小学生のフッカが声を上げた。
好きだよ、フッカ。
それは間違いないんだ。
でも、いまはやっぱり景色を見ようよ。
きっと、ここにしかない世界があるんだ。
いましか見れない景色が。いま見なきゃいけない景色が。
くるっとオレを見上げた瞳は、さっきの艶めかしい大人の女の色ではなく、キラキラと弾けるあどけない少女の輝きだった。
「ね、ね、あれ、富士山だよね!」
彼女が遠くの山を指さして「ほらほら」と笑う。
「ここから富士山が見えたらスカイツリーだって見えるよ」フッカの頭をぽんぽんしてやる。
「えっ、うそっ、スカイツリーどこ?」フッカが慌てて窓に顔をくっつけた。
これじゃあ、小学生どころか幼稚園児だ。
おかげで、さっきまで隠すのに困ってた身体のこわばりはほぐれたけど、伊香保と富士山とスカイツリーの位置関係の説明に一苦労することになった。
「そうなんだぁ。でも、榛名山からだと富士山とかスカイツリーも見えるって書いてあったよ」
フッカがしこたま読み込んだパンフレットの情報を引っ張り出してきた。
「えっ、うそっ、マジで!?」オレは慌てて窓に顔をくっつけ当たりを見回した。
ダメだ、子供であることが楽しすぎる。
ロープウェイを降りたフッカはバカップルぶりはすっかり影を潜めて、オレの手をぐいぐい引っ張って展望台を目指して全速で駆けていた。
うそだろ。
速い。付いてくのがやっとだ。
坂や段差、カーブでのライン取りが巧みで、まるでけもの道を抜けるウサギのようだ。
なぜ走る?
小学生は意味もなく走るもんだ。
ただただ、走らずにはいられない。
散策路で何人かを追い抜いて、目の前に上ノ山展望台の全貌が姿を現した。
オレたちは勢いそのままに展望台の階段を駆け上がって展望デッキの上に立った。デッキの上には何組かの家族連れやカップルが思い思いの方角で景色を眺めている。ベンチもあるけど寒さのせいか荷物置き場となってて座ってる人は見当たらない。
いきなりフッカがオレに抱きついてきた。でも、甘えているのではない。もたれかかる柱が欲しいのだ。それで、苦しそうに全身で荒い息をしながらつぶやいた。
「一番乗りじゃなかったぁ」
なるほど、全力で走ってた理由がわかった。
ロープウェイは十五分に一本出てる。走れば走るほど、前の便の客に追いつくだけだ。フッカはその事実にしばし呆然となって情けない顔でオレを見上げた。
目の前が開けた場所のベンチに尻もちをつくように勢いよく腰掛けた。
「暑っつ」
フッカがコートを脱いで脇に置いて脚を投げ出す。
オレも熱がこもって汗が引きそうにもないのでコート脱いだ。久々の全力疾走だった。ほんの少し足首がズキズキする。
フッカは盛んに「あちー、あちー」を繰り返しながらリュックから真新しい山吹色のフェイスタオルを引っ張り出して天を仰いだ顔に目隠しするように押し当てた。
広げたタオルの間からピンクのボーダー柄の布がフッカの膝に落ちたのを気付いていない。
地面に落ちてもまずいのでそれをつまみ上げた。
「フッカ、これ」
「ああ、お兄ちゃん、好きでしょ、この色」
そりゃあ、色も形も大好きだけど、たぶんコイツのことじゃないよな。
「もう一枚あるから、お揃いで使おう」
フッカのお勧めのようだけど、これはさすがにオレの尻には小さいと思う。
上を向いたまま、顔にタオルを乗っけてクールダウンしてるフッカの脇腹を人差し指で突っついた。
「フッカ、これ、タオルから落ちたよ」
「にゃん?」
不意に出てくる女の子の発声は面白くて可愛らしい。
彼女は顔を起こしてオレの手の中の物を認めると、それをひったくった。
それで、山吹色の右ストレートを放ってきた。
この上ノ山の展望デッキはトキメキデッキと呼ばれている。トキメキというぐらいあって、ここは「恋人たちの聖地」なのだそうだ。
デッキに上がると、〝輝望の鐘〟というのが設置されていて、カップルで鳴らすととりあえずいいらしい。フッカと二人で鐘を鳴らし、デッキから見える景色を寄り添ったまま眺めていた。
あの山のずっとずっと向こう側に、オレたちが暮らしていた街があるんだ。オレたちの家族はいまいったい何をしているんだろう。
少し陽が傾いてきて、山頂の冷たい風に互いの腰に腕を回して身を寄せ合い、空いた手を握り合った。
「お兄ちゃん、ずっと一緒だよ」
「ああ、もう、フッカを誰にも渡すもんか」
フッカが腕に力を込めてしがみついてくる。
オレはこの小さな女の子を守ってやれるんだろうか。
好きだという気持ちだけで、何とかなるもんなんだろうか。
もし、このまま……。
「お兄ちゃん……」
フッカが背中をぎゅっとつかんできた。
そうだ、フッカ、オレを信じろ。オレを頼れ。それがおまえを守るための勇気と自信に…………。
「……おしっこ」
汗が引いて身体が冷えたんだろう。飲泉所で水をがぶ飲みしたうえに、真冬の山のてっぺんで一時間以上立ったままお喋りしてたんだから無理もない。
ちょっと恥ずかしそうにする上目遣いが愛らしい。
「駅まで持ちそう?」
「うん、大丈夫」
オレたちは、もう一度鐘を鳴らしてから駅に向かった。
途中から限界が近くなったのか、フッカの歩みが早まり、しまいにはダッシュになった。
「もうその辺でするか?」
適当な木の影を指さしてやる。
「もう、子供じゃないんだから、女の子がそんなことできるわけないでしょ」
フッカの声は甲高くかなり切羽詰まっているようだ。
全速力で駅のトイレに駆け込んだけど、最終的に間に合ったのかどうかは本人以外はわからない。でも、何かあってもタオルと着替えのパンツを持ってるから大丈夫だろう。
スッキリとしたのか、トイレから出てきたフッカは淑女の表情に戻ってて澄ました顔でロープウェイに乗り込んだ。
麓の駅は山頂から戻ると数度は暖かく感じる。
心身ともにホッとした彼女を連れて駅前の電話ボックスに向かった。
もうすぐ四時になる。このあたりも五時には暗くなってしまうだろう。今夜をどう過ごすか、そろそろ決めなくてはならない。
じいちゃんの家がだめなら……。帰るか、行くか――さあ、どこへ……。
不安げな顔を隠さないフッカの隣で緑色の受話器を握りしめた。