プロローグ
浅草の喧騒を一本外れた路地裏。 魚介と醤油の香ばしい湯気が立ち込めるそのラーメン屋は、
僕――伏野志貴の、中学時代からの行きつけだった。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。中学最後の夏休み。
親友の七瀬類といつも通りカウンター席に座っていた時のことだ。
満席の店内に、一人の少女が入ってきた。店員に案内され、彼女が座ったのは――偶然にも、僕のすぐ隣の席。
最初は気にならなかった。ただ、 「注文、いいですか」 その、鈴が転がるような透明感のある声を聞いた瞬間、
僕の身体は自然とそちらを向いていた。
湯気の向こう側で、少女が注文を終えて前を向く。 ――心臓が、ドクンと跳ねた。
綺麗に切り揃えられた黒髪。少し切れ上がった、吸い込まれそうな瞳。整いすぎているその横顔に、僕は箸を止めて見入ってしまった。
やがて彼女の前にラーメンが届く。 少女は小さく手を合わせると、髪を片手で耳にかけ、箸を取った。フーフーと綺麗に息を吹きかけ、麺を啜る。その一連の動作があまりにも美しく、上品で、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。
美味そうに、幸せそうにラーメンを食べる彼女から、目が離せなかった。 恋愛経験ゼロ。女の子とまともに話したこともないこの僕が、人生で初めて、異性に心を奪われた瞬間だった。
◇
後日。類が、あのラーメン屋の彼女について調べてくれた。
「あの子なんだが……大物だぜ? 名前は烏月風花。神奈川の海ノ浜中学で、モデルもしてるらしい」
「そうなんだ……。あのラーメン屋に行けばまた会えるかな?」
「それはわからんが、ここからがいい情報だ。彼女、春からは日留高校に行くらしいぞ」
「日留高校? 聞いたことないね」
「そりゃそうだろ、横浜の方の高校だからな。でも結構いい進学校らしいぞ?」
「横浜……? ここからじゃ結構遠いね」
類はニヤリと不敵に笑い、僕の顔を覗き込んできた。
「どうだ? お前は女のために、今とは違う環境に飛び込めるか?」
確かに、元々僕は地元の千花高校に行くつもりだった。その方が楽だし、受験勉強もそこそこで済むと思っていたからだ。 だけど――。
「……こんな気持ち、初めてなんだ。これが恋。ラーメンやゲームと出会った時のワクワクとは、また違う感情なんだ」 胸の奥の熱い高鳴りを確かめるように、僕は拳を握る。
「類、決めたよ。僕、日留高校にいく。今度こそ、彼女に会うために……!」
「そうか。じゃあ、俺も行ってやるよ。お前と一緒にいて退屈しない日はなかったしな」
「ほんと!? 類、助かるよ!」
嬉しさのあまり、僕は類の、骨張った手をぎゅっと両手で握りしめた。
「おい、やめろ!? 外で男同士で手を握るな、誤解されんだろ!」
「誤解? なんのこと?」
「志貴から離れなさ〜〜いっ!!」
「ぐほぉっ!?」
突如、横から恐ろしい速度の足が飛び込んできて、類の顔面に鋭くめり込んだ。
「類ーーーーっ!?」
「志貴大丈夫!? あいつに何も変なことされてない!?」
そのまま、僕の体をあちこちペタペタと触って安否を確認してくる少女。
彼女は僕の幼馴染、熱海陽奈。海の色のように鮮やかな青色のショートヘアに、少し小柄で子どもっぽい容姿をした、元気が取り柄の女の子だ。
「陽奈? 特に何もされてないけど……なんでいきなり類を蹴ったの!?」 「あいつが志貴にベタベタ触ってたから!」 「別に、男友達だしそれくらい普通じゃないの?」 「だめ! 志貴は……っ、もう、なんでもない! バカ!」 「ええ、なんで!?」
陽奈は顔を真っ赤にしてぷいっと横を向くと、強引に話題を変えた。
「それより! さっきなんの話をしてたの?」
「聞いてよ陽奈! 僕、志望校を決めたんだ!」
「え? 地元の千花高校でしょ?」
「ううん、変えたんだ! 横浜の日留高校に!」
「よこはまぁっ!?」
静かな路地裏に、陽奈の甲高い絶叫が響き渡る。
「そうだよ……相変わらずイテぇ蹴りだぜほんと……」 類が赤くなった頬を押さえながら、呆れたように口を挟んだ。 「そいつ、あのラーメン屋の女に一目惚れして、わざわざ横浜まで行くんだってさ」
「一目惚れぇっ!?」
「えへへ……。僕、あの子と一緒の高校に通って、今度こそお話ししたいなーって思ってさ」
僕が照れくさそうに、けれど希望に満ちた未来を語っていると、陽奈が急に下を向いて、小さな拳をぶるぶると震わせ始めた。
「……なんで、そんな知らない女子なんかのために……」
「陽奈?」
「知らない! 志貴のバカっ!!」
と言い捨てて、陽奈は涙目で走ってどこかに行ってしまった。
「……やれやれ。お前は本当に分かってないな。今のお前を取り巻く状況が、どれだけ危険か……」 類は何かを察しているみたいだけど、それ以上は教えてくれなかった。
まあ、でも今は関係ない。浅草から横浜への遠距離通学になるなら、向こうで部屋を借りなきゃいけないし、そのためにはまず、日留高校に受かるための猛勉強が必要だ。
◇
そして春。 僕は寝る間も惜しんで勉強し、見事に日留高校の合格通知を掴み取った。
焦る必要はない。類の話では、風花さんにはまだ彼氏も好きな人もいないらしい。高校生活という新しいステージ、そして母親の紹介で決まった横浜の下宿先での新生活。不器用ながらも一歩ずつ、彼女との距離を縮めていけばいい――。
桜の舞う通学路を歩きながら、僕はそんな薔薇色の未来を思い描いていた。
だが。 僕の視界が『運命の彼女』だけで満たされていたその裏で、
すでに手遅れな状況が出来上がっていた。




