第9話 霧獣法流
【霧獣法流の威容】
旅の途上、正雪はいくつもの小妖怪を退けながら歩を進めた。道は険しかったが、その足取りが揺らぐことはなかった。胸に揺れる潮音珠、壺の中で暮らす梨花と翠夏。師・道斎から託された印籠。――それら全てが、正雪を前へと押し出す確かな支えとなっていた。
梨花から伝授された潮音珠の呼吸法は、満月時に体を蝕む痛みを和らげるだけでなく、正雪の霊力循環を飛躍的に高めていた。波のリズムを体内に刻むような呼吸。それは仙術の発動を安定させ、彼の霊気に海のような広がりと余裕をもたらしていた。
潮風の香りが薄れ、代わりに山の深い息吹が肌を刺す。空気は澄み、霊気は濃く、全身の毛穴が喜びの声を上げるようだった。
やがて――霧が層を成し、光がその間を縫う中、目的の地が姿を現した。
霧獣法流。
鋭い峰々が雲を突き刺すように連なり、奥深くからは獣と禽の鳴き声が鳴り響く。それは自然の響きではない。山そのものが巨大な生き物であるかのような霊威。雪解け水が流れる川は透き通り、陽光を反射しながら静かに山裾を走っていた。
木々の影、その奥に。
ひっそりと佇む大きな鳥居と山門。
古びてはいるが、朽ちてはいない。まるで幾千年もの風雪と霊気を受け止め続けた老樹のように、静かでありながら圧倒的な威圧感を放っている。鳥居の左右には獅子に似た獣と、翼を拡げた霊鳥の石像が対となり、正雪を無言で見下ろしていた。魂が宿るかのごとき鋭い霊圧。
正雪の胸が期待と緊張で静かに震えた。
(……ここだ。師匠が心血を注ぎ、修行した場所)
深く息を吸い、正雪は鳥居を踏み越えた。
瞬間、視界を閉ざしていた霧が裂けるように薄れ、岩と巨木の間から数多の殿宇が現れた。落ち着いた道服に身を包んだ修験者たちが往来し、巨大な霊獣が音もなく歩を進めていく。活気が満ちているのに、山のように重い静寂が根底に息づいていた。
「……ここが、霧獣法流か」
言葉は自然に漏れた。まるで師の人生そのものへ触れたような重い実感に、胸が締めつけられる。
正雪は印籠を慎重に取り出し、山門前の修験者へ差し出した。
修験者は鋭い目で紋様を読み取り、霊気を流して確認すると――静かに頭を垂れた。
「確かに――道斎殿の印籠。少しお待ちを」
短い時間の後、正雪は門の奥へ案内された。
最初の殿を越えると視界はさらに広がる。山肌に寄り添うように建てられた殿宇、霊獣が眠る岩穴、修行者がその魂を磨く試練の塔。そして常に濃霧を纏う修練場――。
ここが、道斎が歩いた修行の地。胸の奥で何かが震えた。
【心魂灯】
「ようこそ、霧獣法流へ」
柔らかくも重みのある、深く響く声が降りてきた。
正雪は急いで振り返った。そこには、落ち着いた色の羽織を纏い、銀の髪を肩に流す年取った男が立っていた。師匠より若いが、大差がないようだ。眼差しは優しく、その奥には、巨大な霊獣をも屈服させるほどの強い霊威が宿っている。その気勢には、彼が宗門内でどれほど高い地位にあるかが、無言で示されていた。
「……そなたが、正雪か」
「はい。道斎師匠の弟子――常盤正雪と申します」
男は静かに目を伏せ、深い息を吐いた。
「道斎殿の――最後の弟子よ。ひとつ、聞かせてほしい。道斎殿の死因を」
その問いに、正雪の心臓が跳ねた。まだ誰にも語っていない。あの夜のことを。
「師匠の死は、すでにご存知だったのですか?」
男はゆっくりと語り始めた。
「驚かせてすまぬ。道斎殿が宗門を出た時、我々は彼の霊力を監視するために、宗門に心魂灯を残した」
「……心魂灯?」
「うむ。修仙者が死した時、霊力が途絶え、灯は消える。――そして数日前、道斎殿の灯は静かに消えた。だが、それは寿命ではない。急激な霊力断絶――無理やり魂を絶たれた痕跡だった」
正雪の脳裏に、黄色い衣をまとった男女の姿が蘇る。
傷ついた師。 血の匂い。 笑う者たち。 消えていく灯火。
心の底から昇る憎悪が、手を震わせた。
【肆階の誓いと長老の盟約】
銀糸のような髪を肩に流す長老――早波川蓮司は、正雪の瞳に宿る激しい憎火を静かに見つめていた。その眼差しは嵐を映しながらも、深い湖のような静寂を湛えている。
「……すべて語れ。胸に溜めた炎を隠すな。」
その言葉に、正雪は堰を切ったように語り始めた。師を襲った黄色い道服の男女――鋭い霊符、殺気、そして無慈悲な一撃。怒りと悔恨を噛みしめながら、ひとつ残らず伝えた。
蓮司はしばらく沈黙し、それから低く呟くように言った。
「妖の仕業かと思っていたが……まさか同じ人間とはな。」
長老の声には怒りも驚愕もなく、ただ厳しい現実を告げる冷徹さがあった。
「君の話から察するに――心当たりはある。だが、今は言えん。」
「なぜですか。」正雪は拳を握りしめた。「師匠を殺した相手です。知る権利が――」
「権利ではなく、実力だ。」
蓮司の声が鋭く、空気が震える。
「彼らは――《肆階》の者。仙途の中でも“強者”と呼ばれる領域だ。君はまだ遠い。無謀な知識は、死に繋がる。」
正雪はなおも食い下がる。
「それでも――!」
蓮司は手を上げて遮った。
「断る。これは宗門の深部に関わるもの。今の君に背負わせるには重すぎる。」
そして、少し声を落とし、静かに続けた。
「――だが、誓おう。君が《肆階》へ至ったその時、すべてを教える。名も、理由も、仇として刻むべき真実も。」
その言葉には嘘がなかった。山を裂く霊獣すら屈服させるほどの霊威と誓いが宿っていた。
正雪は息を詰め、静かに頭を垂れた。
「……必ず辿り着きます。その誓い、決して忘れません。」
蓮司はうなずき、名を告げた。
「我は、霧獣法流・副宗主――早波川蓮司。道斎とは修行を共にした旧友だ。今日より、君の導師となろう。」
その瞬間、正雪の胸に燃える炎は、復讐の衝動から――修仙者の誓いへと形を変えた。
【朔夜と朔月】
蓮司の隣には二人の若き修行者が控えていた。
一人は冷月のように静かな青年――早波川朔夜。鋭い眼光と腰に帯びた細剣は、彼が一本の刃として鍛え上げられている証だった。
もう一人は、柔らかな風を思わせる娘――早波川朔月。その微笑は霊泉のように澄み、正雪の心に張り詰めた緊張をそっと溶かした。
「朔夜、朔月。正雪の先輩となれ。彼を見守り、導け。」
蓮司の言葉に、二人は同時に礼を取った。
「――これより共に修行する者として、よろしく。」
正雪は深く頭を下げた。
「こちらこそ……よろしくお願いします。」
【朔夜の案内と霧獣の気配】
早波川朔夜は笑顔で、正雪を連れて居住区へと歩き出した。
「正雪、案内しよう。住まいからだ。」
彼の歩みは静かだが速い。正雪はその背を追いながら、宗門の広さと霊力の濃さに息を呑んだ。
霧が立ち込める巨大な修練場。霊獣の吼えが響き渡る森。石畳の道を通り抜ける修験者たちの気配。すべてが実戦と修行のために築かれた世界だった。
朔夜は高くそびえる塔を指した。
「ここは『玉泉寮』だ。主に弐階以下の下位の修験者が暮らしている。君の部屋は二階だ。」
朔夜は親切に説明した。石造りの寮は古いが清掃が行き届いており、窓からは遠くの峯々が見える。
寮を出ると、朔夜は宗門の主要な施設を指し示した。
「あれが、『霧獣の修練場』。霧獣法流の真髄、霊獣を飼い、操ることを学ぶ場所だ。常に濃い霧が立ち込めているだろう。あれは霊力の霧だ」
霧の奥からは、巨大な獣が地を這うような唸り声がかすかに聞こえてくる。
「次に、『万象の試練塔』。宗門で最も霊気の濃い場所だ。階層ごとに異なる試練があり、参階から肆階への突破、つまり王者の座を目指す者が挑む」
朔夜はそこで初めて、正雪の方を向いた。 「道斎様の仇を打ちたいなら、そこが君の目指す場所だ。宗門内の競争は激しい。道斎殿の弟子として、恥じることのないように」
朔夜の言葉には、激励というよりも、試練の圧力が込められていた。
最後に案内されたのは、居住区の裏にある静かな岩場だった。
「ここは『白龍の滝』。霊脈が通る場所で、瞑想に適している。夜には霊獣が水を飲みに来ることもある。他言無用だ」
朔夜は案内を終えると、正雪に鍵を手渡した。
「疲れただろう。今日はゆっくり休め。修行は明日からだ」
玉泉寮の二階、自分の部屋に入った。窓から見えるのは、修行者の往来と、遠くで吠える霊獣の影。
扉が閉ざされ、静寂が落ちた。正雪は荷を下ろし、床に座り込んだ。師の仇は「肆階の強者」。その仇を討つためには、自分も同じ、あるいはそれ以上の高みへ到達しなければならない。
正雪は河童の壺をそっと床に置き、深く呼吸した。潮音珠のリズムが身体に広がり――海の波のように静かに燃える決意が芽吹く。
心の底から、ひとつの言葉が浮かぶ。──必ず追いつく。必ず倒す。必ず証す。
師の死、誓い、そして宿命。彼の心に、新たな闘志の波が打ち寄せた。




