第5話 翠夏仙蛙
【山の朝と壺からの声】
山の朝は白かった。
深く濃い霧が山々の稜線を呑み込み、鬱蒼と茂る杉の枝先には夜露がひそやかに光を放っている。鳥の声も遠く、世界はただ、師匠の死後のような、重い静寂に沈んでいた。
正雪は、小さな草庵の前に立っていた。一年余りを過ごしたこの場所には、師匠・道斎の、薪の炎の匂い、薬草を煎じる香り、そして何よりも彼の豪快な笑い声が、畳の目の一つ一つにまで染み込んでいるようだった。昨日、師匠を埋葬した場所に、正雪は簡単な法陣を設けた。これで、むやみに野獣も妖も寄ることはない。
正雪は静かに草庵の戸を閉め、荷袋を背負い、旅立とうとした。師の遺志を継ぎ、そして、あの二人組に奪われた「六羽蝶衣」の真実を知るため、霧獣法流を目指す。
その一歩を踏み出そうとした、まさにその時――
「ま、待てぇぇ……! 行くなぁぁ!!」
乾いた土間の方から、ぴょんっ、ぴょんっと、妙に甲高い、焦燥に駆られたような音が跳ねた。
「……は?」
正雪が振り返ると、埃まみれの河童の壺が、まるで生き物のように跳ね回っている。最後はまるで泣きつく子供のように、正雪の脛に目掛けて飛び込んできた。
「俺も行く!! 置いてくなぁ!!」
「喋った!? いや、待て、近い! 離れろ!」
正雪は慌てて壺を投げ捨てようとしたが、壺は霊力で編まれた肌着に吸い付いたように離れない。
「嫌だ! 」
「お前、誰だ!」
その瞬間、壺の口が、まるで口を開くように傾いた。
ぽふん。
壺の奥から、鮮やかな若竹色の、小さな蛙が飛び出した。
【仙蛙の正体と印籠の秘密】
蛙は正雪の袖の上に降り立ち、背筋を伸ばして胸を張った。その態度は、この小さな生き物が持つべきものではない、奇妙な威厳に満ちている。
「やあ、正雪。ようやく会えたな。安心したまえ。俺は敵じゃない。悪辣な修仙者でもない。――心清き存在、仙蛙だ」
正雪は驚きよりも、そのうぬぼれた態度に呆れた。
「人の心は海のように深く、故に濁りやすい。だが、蛙の心は池のように浅く、底まで澄んでいる。美しいものほど、毒がある。茸も、蜘蛛も、魚もだ。だが、蛙が違う。俺ほど美しく上品で、優れた知識を持つ蛙はいない。俺は『仙蛙』だ。」
「…………」
正雪は、感情を読み取れない真顔で、二文字だけ返した。
「帰れ」
「待て!待て待て待て! 今の撤回しよう! 俺ほど頼もしい存在はいないぞ! 日が長くなれば、わかるさ。この印籠の使い方を教えてあげよう。代わりに連れてくれ!」
蛙は慌てて正雪の腰に下がった、師の遺した霊宝・印籠を指差した。
「師匠は”見返りは求めるな”と教えてくれた。」
正雪は言い張った。
だが蛙は、じっと正雪の瞳を覗き込む。
「何か得れば、何か失う。それは天地の理。見返りを求めないのは立派だけど、タダで手に入れたものは大切にされにくい。求められるからこそ、因果がはっきりする。」
蛙は、まるで心の奥を見透かすような目で見つめられ、正雪は息をのみ、やがて小さくうなずいた。
「……一理ある。わかった。交渉成立だ。印籠の使い方を教えてくれ。それと——なぜ俺について来る?」
「理由は全部は言えないが……君の体の中に、どうも“懐かしい気”があるんだよ。俺はそれに惹かれてる」
蛙は話題を切り替えた。
「その印籠、下級霊宝だ。中に隠れ空間がある。霊力を流して、この模様を内側に刻むんだ。そうすりゃ使える」
蛙の指した模様は、六角形が幾重にも重なる紋。正雪は言われた通り霊力を注ぎ、その紋を印籠の内側に刻んでいった。
正雪が恐る恐る覗き込むと、その小さな空間の奥に、畳一畳ほどの、澄んだ霊気に満ちた空間が広がっている。
「……本当に、空間がある」
「だろう? 俺を連れていけば、もっと色々と教えてや――」
【六羽蝶衣】
その瞬間、印籠の隠し空間の最奥から、絹の羽のようなものが、ふわりと飛び出した。
瞬時に、正雪の体に巻き付いた。蝶の羽のような繊細な紋様に変わりながら、溶けるように正雪の体に消えた。
「――っ! 何だ今の!? ……?」
正雪は、体内に流れ込んできた、清涼な霊力の奔流に目を見張った。全身が薄い霊気の衣で覆われたような、身のこなしを軽くする感覚だ。
蛙は長い舌を伸ばし、ぺちと正雪の額を叩いた。
「タダで教えると思うな」
「お前……!」
「まあいい。今日はお前と最初の縁の日だ。教えてやる。あれこそ――六羽蝶衣だ」
正雪は息を止めた。
「六羽蝶衣……あの日、師匠から奪われたじゃないか……」
「奪われたのは、六羽蝶衣の仙法が書かれた器だけだ。本物は、今君が全身に纏ったもの――それが六羽蝶衣の真核だ」
正雪の心臓が大きく脈打つ。師匠は、死を覚悟した最期の瞬間まで、自分を守る術を用意してくれていたのか。
蛙は、突然、表情を真剣なものに変えた。その小さな体が、重い威圧感を放つ。
「力を求める者は多い。だが勘違いするな。力を持つ者ほど、人を守り、人を律する義を忘れてはならぬ。むやみに善人づらするな。やるべきことをやれ。やるべからざることをやらぬ。それは、お前の師の最期の教えだ」
その言葉は、まるで師匠の魂が憑依したかのように重く、正雪の心に響いた。
「って、六羽蝶衣は、どう使うんだ?」
「それは質問か?」
蛙は道斎そっくりの憎たらしい笑みを浮かべた。
「もういい。聞かない」
「おっ、拗ねた? 可愛いなぁ」
「……」
一人と一蛙は、霧煙る山道を歩き出した。向かう先は、霧獣法流。
【翠夏仙蛙】
正雪は印籠の隠し空間に、荷物を入れた。河童の壺も入れようとした時、蛙は止めた。河童の壺も空間霊宝だ。空間の霊宝は互いに収納できないことを注意された。
正雪は山道へ足を踏み出した。霧が晴れ始め、朝日が差し込み、鳥が鳴き、風が草を撫でる。
歩きながら、ふと思い出したように、つぶやいた。
「……そういえば、お前名前は?」
蛙は、すぐさま甲高い怒鳴り声を上げた。
「いまさらか! 礼儀という言葉を学べ! 俺は――翠夏仙蛙。仙蛙と呼べ!」
「すい……か?」
正雪は、わざとらしく小首を傾げる。
「違う! 翠の”すい”、夏の“か”! 分かって言ってるだろ貴様!」
「ハハッ。よろしくな――西瓜ちゃん」
「西瓜じゃない!!!!!!」
仙蛙は怒りながら壺に飛び込み、蓋を激しく閉めた。
正雪は笑みを噛み殺しながら、前を向いた。霧の先、遥か彼方に山々が重なり、その奥に――師の出身の宗門、霧獣法流がある。
正雪は歩みを止めず、空を見上げた。
雲はゆっくりと流れ、風は、まだ見ぬ修行の地へと呼ぶようだった。




