第38話 魂火相撞
【犬牙鋏】
黒い霊海の中心。燃魂灯は、どくどくと脈動していた。闇そのもののような黒炎が揺らめき、その隣では、正雪の魂である火玉が弱々しく浮かんでいる。
だが今。その火玉は、翠夏の呼びかけに、確かに反応していた。赤い火が微かに揺れる。まるで、深い水底で沈みかけていた者が、必死に手を伸ばそうとしているかのように。
「正雪!」
翠夏は叫びながら駆け寄った。だが、火玉は自由ではなかった。赤い炎の中心から伸びる細い糸。魂の糸。それが、黒い灯へ深く繋がっている。
燃魂灯は、その糸を通じて、絶えず正雪の魂を吸い上げ、燃やし続けていた。火玉は逃れようとしている。だが離れられない。引き裂かれるように震えながら、苦痛に耐えている。
翠夏は歯を食いしばった。
「クソ……!」
袖の中から、小さな鋏を取り出す。犬牙鋏。妖獣の牙を鍛え上げて作られた魂断ちの霊具。霊的な繋がりを切断するための秘器だった。
翠夏は躊躇なく、その赤い糸へ鋏を叩き込む。
ぎぃん――!
火花のような霊光が散る。だが、切れない。糸は細い。それなのに、まるで天地そのものへ繋がっているかのように微動だにしなかった。
「何だよ……これ……!」
翠夏は霊力を鋏へ流し込む。青い霊光が爆ぜ、鋏の刃が唸りを上げた。再び切り裂く。だが結果は同じ。赤い糸は揺れるだけで、断たれない。
翠夏はすぐに方法を変えた。今度は糸そのものを掴む。青い霊力を腕へ集中させ、全力で引いた。
「うおおおおっ!!」
霊海に波紋が広がる。だが。黒い灯は、びくともしない。逆に、底知れぬ重みが翠夏の魂へ食い込んできた。まるで山を引いているようだった。
いや。山より重い。それは“因果”そのものの重さだった。
燃魂灯は、ただの術ではない。一度繋がれば、魂そのものを永遠に縛る呪い。
翠夏の額へ汗が浮かぶ。どうする。どうすればいい。その時。火玉が、かすかに震えた。まるで、苦しみながらも何かを伝えようとしているように。
翠夏は息を呑み、そっと火玉へ手を当てた。
【魂火相撞】
一方。正雪の意識は、深い闇の中へ沈み続けていた。痛い。ただ痛い。永遠に終わらない焼灼。魂を削られる感覚。存在そのものが燃やされている。
正雪は、自分の魂が弱っていくのを感じていた。何かが流れ出している。自分という存在が、少しずつ消えていく。
止めようとした。必死に。だが術がない。方法がない。
燃魂灯は、あまりにも強大だった。だから正雪は、ただ耐えるしかなかった。永遠にも思える苦痛を。
その時だった。
――正雪。
遠くから、何か声が聞こえた。霞む意識の中。正雪の瞼が、わずかに動く。
――翠夏か……?
長い間、連絡の取れなかったあの仙蛙。ようやく出てきたのか。
次の瞬間。青い霊力が流れ込んできた。冷たい水のような霊気。澄み切った“水”の力。その力が、正雪の魂へ重なる。
瞬間。黒い灯の吸引力が、わずかに止まった。
赤い魂火と、青い霊力。二つの力が合わさり、黒い灯の引力へ抵抗する。ぎりぎり、と。霊海そのものが軋んだ。まるで綱引きだった。
黒い灯が魂を引く。正雪と翠夏が、それに抗う。一時的に、均衡が生まれた。
だが。次の瞬間には、再び赤い火が削られ始める。黒い灯の力が強すぎる。このままでは。自分だけではない。翠夏まで引きずり込まれる。正雪は理解した。
ならば。もう賭けるしかない。
「……一か八かだ」
正雪は決意した。ぶつける。全部。残った魂ごと。翠夏の青い霊力と、自分の赤い魂火。その全てを、一気に黒い灯へ叩き込む。
「翠夏!!」
叫ぶ。
次の瞬間。赤い光が爆発した。翠夏も即座に理解する。青い霊力を、全力で流し込んだ。
赤と青。二つの光が絡み合い、一つの奔流となる。そして――黒い灯へ激突した。
轟。
霊海が揺れた。光と光がぶつかる。その瞬間。今まで経験したことのない激痛が、正雪の全身を貫いた。魂が裂ける。意識が砕ける。存在そのものが崩壊しそうになる。
だが。正雪は止めなかった。そんなことに構っている暇はない。押し込む。さらに。もっと。
その時。正雪は“それ”を見た。黒い灯の中心。激突した場所から――
一本の、金色の糸が現れた。細い。だが、神々しい光。まるで朝日のような金色。
「……何だ?」
次の瞬間。黒い灯が、その金糸を呑み込もうとした。闇が覆いかぶさる。
だが。正雪の魂は、本能的に動いていた。考えるより先に。火玉から伸びた赤い光が、その金糸を掴む。そして――引っ張った。
ぶちり、と。何かが剥がれる感覚。
その瞬間。奇妙な景色が生まれた。赤い糸は、なおも黒い灯へ吸い込まれていく。だが同時に。黒い灯の内部から、金色の光が引きずり出されていく。
吸われながら。奪う。奪われながら。引き出す。
赤と金。
二つの流れが循環を始めた。まるで、水車のように。燃魂灯が魂を吸うたび、逆にその奥から金色の何かが引き出されていく。
霊海が震えた。黒い灯が、初めて不安定に揺らぐ。
そして。青い光――翠夏の霊力は。その激突の瞬間、弾き飛ばされていた。
【足音】
洞窟の中には、黒い炎が静かに燃えていた。巨大な燃魂灯。その中央では、正雪が灯芯のように座らされている。頭上で揺らめく黒炎は、絶え間なく魂を焼き続けていた。
その少し離れた陰。梨花は、息を潜めていた。白い両手で、翠夏の肉体を抱えるように支えている。
翠夏の身体は冷たい。呼吸はある。だが、そこには意識がない。魂が抜けた空の肉体。その傍らでは、離魂香が静かに燃えていた。細い煙。白く揺れる一本の線。
あの煙が途切れた瞬間、翠夏の魂は帰る道を失う。だから守らなければならない。絶対に。
その時だった。
――コツ。
足音。梨花の肩がびくりと震えた。洞窟の奥。暗闇の向こうから、人の気配が近づいてくる。梨花の顔から血の気が引いた。
帰ってきた。術者たちだ。妖気と血の臭いが混じる空気の中、足音だけがやけに鮮明に響いてくる。
コツ。
コツ。
ゆっくり。だが確実に近づいてくる。梨花は反射的に河童の壺を見た。壺の中へ逃げれば安全だ。入口さえ閉じれば、簡単には見つからない。
だが――逃げられない。翠夏の肉体がある。離魂香もある。そして、燃魂灯の中では、正雪と翠夏の魂が命を懸けて戦っている。
自分だけ逃げるなど、できるはずがなかった。梨花は唇を噛み締める。指先が震えていた。
戦える相手ではない。それくらい分かっている。燃魂灯を扱うような相手だ。自分一人で勝てるはずがない。きっと死ぬ。
その想像が、頭を過ぎった。だが。それでも。梨花は静かに翠夏の身体を抱き寄せた。離魂香の火を、袖で庇う。小さな身体で、必死に隠す。
せめて。せめて少しでも時間を。
早く。翠夏さん。早く。心の中で、何度も願う。
その時だった。洞窟の外から、声が聞こえた。
「おい、まだアイツが死んだか見に行くのか。まだ早いだろ」
男の声。どこか気だるそうな口調。続いて、女の声が響く。
「待ちきれないのよ。すぐでも殺したい」
ぞくり、と梨花の背筋が凍る。男が笑った。
「だから、永遠の痛みを与えた方がいいって言っただろ」
「嫌よ。早く死んでほしいの」
声には、底冷えするような憎悪が滲んでいた。梨花は息を止める。見つかる。そう思った。だが、外の会話は続いた。
「燃魂の術は、一旦起動したらなかなか止められないからな」
「だいぶ燃やす時間は縮めたけどよ」
「明日まで死ななければ、無理やりでもやるか」
「今は酒だ、酒」
笑い声。足音。それが、少しずつ遠ざかっていく。
コツ。
コツ。
やがて完全に聞こえなくなった。静寂。洞窟には再び、燃魂灯の黒炎だけが揺れている。梨花は、その場へ崩れるように座り込んだ。
「……っ」
気づけば全身、汗まみれだった。肩が震えている。恐怖で、息がうまく吸えない。だが。離魂香の火は、まだ消えていない。
翠夏の肉体も無事だ。梨花は何度も浅く呼吸した。震える手で、そっと線香を守る。
「……急いで……」
かすれた声が漏れる。
「翠夏さん……正雪さん……」
洞窟の奥では、黒い灯がなおも静かに燃え続けていた。




