第19話 霊獣の間にて 〜 血飛沫と絶望の胎動
【霊獣の間にて ~ 血飛沫と絶望の胎動】
霊力を乱しながら駆け戻った正雪は、霊霧を裂き、自室の静室の扉を勢いよく開け放った。
――だが、その先の光景に、彼の霊力は一瞬で凝固した。
床の石板には、生々しい血飛沫が散り、淡い霊光を帯びた灰色の羽毛が空気の澱みの中で静かに舞っていた。
そして、静室の中央――片足でよろめくように立つ霊獣のヒナ鳥、クルルが、何かを噛みちぎっている。
赤黒い粘度の高い液体が、その鋭いくちばしの端から滴り落ちていた。
「……おい、冗談だろう」
正雪は息を呑み、真意を見極めるため、慎重に一歩近づく。
よく見ると、クルルが食い千切って貪っていたのは、大きく丸まった海霊蛇の死骸だった。その毒牙は、すでに霊気を失っていた。
その横には、霊気を帯びた割れた殻片が散乱していた。大きさ。殻紋。霊力の構造。
――それは、正雪が三重海で拾い上げ、大切に温めていた【大アワビ霊卵】の殻と完全に一致した。
「まさか……」
その瞬間、河童の壺の中から、翠夏の悲痛な叫びが霊光を伴って跳ねた。
「違う!それは大アワビの卵ではない!正雪!それは、海霊蛇の卵だ!!」
続いて、壺の中から貝の妖・梨花が、ため息混じりの鈴のような声で言った。
「正雪……蛇と鳥は天敵同士。同じ霊力の空間に置けば、このような血戦になるのは天の理に決まっている。」
しかし、正雪の表情は妙な静寂を保っていた。
――怒りでも焦燥でも、悔恨でもなく、ただ眼前の現実を道心で受け止める静かな瞳。
「……過ぎた業は戻らない。それより――今、この試練をどう乗り越えるかだ」
正雪はクルルに歩み寄り、その誇り高き頭をそっと撫でた。ヒナとはいえ、クルルの背丈はすでに正雪の胸元まで成長している。
「……クルル。戦場に立てるか?」
クルルは最後の肉片を飲み込み、主人に応えるように小さく鳴こうとした。
しかし、一歩踏み出した瞬間――その幼い身体が音を立てて崩れるように倒れた。足には霊毒が滲み出る深い牙痕。そこから霊毒の脈動がまだ霊気を打ち消していた。
「……噛まれたか」
正雪はすぐさま霊力を指先に集め、止血と毒抜きの小符を貼り付けた。だが、クルルの身体はなお小刻みに震えている。
――試合開始の玉磬まで、もう残り少ない。
「……クルルは万全ではない。これは、不戦敗か……」
正雪は小さく呟き、ふと壺を見た。
「……翠夏。お前は、あの花鰐と戦えるか?」
「いやいやいやいや!!無理無理無理!!」
翠夏が壺の縁で霊気を爆発させて跳ねながら絶叫した。
「あんな怪力霊獣(花鰐)相手に仙蛙の俺が出たら、一撃で霊核を潰されるわ!!」
「畏怖しているのか?真の仙蛙か?蛙の道はそんなに弱かったか?」
「貴様ッ……今の一言で、この仙蛙の慈悲が霊的に全滅した!!!」
「ごめん翠夏!!!世界一優しくて!世界一かっこよくて!世界一偉大で輝く仙蛙!!頼む、助けてくれーーーー!!!」
「…………」
翠夏は誇らしげに顎を上げ、くいっと胸を張った。
「……よろしい。ただし――戦場に立つのは俺ではない。梨花だ」
「え、私?」
壺の中から梨花の鈴のような声が響く。
「妾は壺の結界から出られぬぞ?」
「問題ない。秘術がある」
翠夏はしたり顔で目元を細めた。
「俺が考えた新術――『水転空環』。
戦闘中、正雪が壺を逆さに傾けることで、壺を満たす霊水と共に梨花の霊体が一時的に外界へ出られる。だが注意しろ――外界に滞在できるのは、一服の煙草が燃え尽きるほどの極限の刻のみ。そして、発動回数は一日三度までだ」
「……短すぎる!!わずか一服の刻など、修羅の戦場では瞬きに等しい!!」
「気にするな!瞬間こそが永遠となり、戦局を一気に覆す起死回生の一手となるのだ! 否――むしろ、その刹那の輝きこそが、最高に格好いい(至高の魅力を放つ)ではないか!!」
「…………」
正雪はゆっくりと息を吸い込んだ。内なる迷いも恐れも、焦りも全て吐き出し――
「……よし。この策で挑む。――戻るぞ」
そう言って河童の壺をしっかりと抱え、正雪は再び走り出した。霊風が耳元を裂き、足音が石畳に響く。――その背に宿ったのは、敗北への不安ではなく、最後の策に賭ける、強い決意であった。
【深海胎動:復讐を誓う仙霊の目覚め】
深遠なる三重海。海霊の気脈が最も濃く集まる地の底で、巨大な影が静かに沈黙していた。それこそ、古より海を統べる大アワビ仙霊の本体であった。
八つの殻孔は仙霊の力の象徴であり、現在は六つまでが硬く閉じられ、残る二つから微かな海霊の息吹が漏れるのみ。深い眠りの中で、傷を癒していたその仙殻に、突如、天地を揺るがすほどの激しい霊力の乱れが叩きつけられた。
「グオオオオォ……!」
それは、自身の仙縁を結び、魂魄を分与した「息子」の、非業の死を告げる痛切な波動であった。
閉ざされていた六つの殻孔が一斉に開き、中から眩いばかりの仙光が噴き出した。海底の霊水が瞬時に沸騰し、周囲の霊脈が逆巻く。深海の静寂が破られ、遥かな上空の海面までも、その霊威に震え上がった。
――ゴォッ、バキバキッ!
時を超えて、大アワビの巨大な仙殻が音を立てて開く。その奥から、深海の威圧感を纏った二つの人の影が歩み出た。
一人は、深い蒼色の鱗を随所に覗かせ、瞳に蛇の相を宿す冷徹な美丈夫。その修為は計り知れず、放たれる霊威は周囲の空間を捻じ曲げ、深海の霊獣たちを一瞬で威圧する。
もう一人は、清らかな貝殻の仙衣を纏った麗人。その顔には、千年分の慈愛が剥ぎ取られたような、峻烈な憎悪が刻まれていた。彼女こそ、大アワビの霊核を分けたアワビの妖仙であった。
蛇相の男が、虚空を掴むように霊力を収束させ、低い唸り声で言った。
「我らの仙界への飛昇の修行を中断させるとはな……。誰ぞ、あの子の胎動を止め、その魂魄を消滅させたのだ」
麗人が、静かに、しかし地を這うような怨念の声で応える。
「地上の穢れた霊獣使いの仕業。奴らの卑劣な術によって、我が子は奪われ、殺された……。あの因果、必ず精算せねばならぬ」
彼ら二人こそ、正雪が手にした霊卵の真の親たち。彼らは、仙界に片足をかけた圧倒的な力を携え、我が子の復讐という強い憎悪を胸に、人間の世界へとその胎動を始めたのだ。




