第18話 朔月と刃舞う
【朔月と刃舞う】
闘技場の上空に吊るされた青銅の霊鐘が、重く、鋭く鳴り響いた。
――ゴォォン……。
その音は空気だけでなく、弟子たちの霊脈すら震わせる。熱狂に満ちていた闘技場は、長老の号令と同時に、一瞬で氷のような静寂へ閉ざされた。
「――開始!」
霊音が消えた刹那。朔月の姿が掻き消えた。
まるで払暁の霧を裂く疾風。桃色の道衣がふわりと翻り、その袖影から、青銀の輝きを放つ双短剣が滑り出る。
【月華の短剣】。
月光を鍛え上げたかのような刃には、静かでありながら凄まじい鋭気が宿っていた。
「《青羽刃》!」
朔月が刃を翻した瞬間、青白い霊光が羽根のように空へ散った。
否――羽根ではない。それは霊力によって形成された刃の群れ。
螺旋を描き、軌道を変えながら、生き物のように正雪へ襲い掛かる。まるで獲物へ絡みつく蒼蛇の群れだった。
正雪は瞬時に霊息を沈め、足裏の経絡へ霊力を集中させる。
「《塵風歩》!」
足元から砂塵混じりの霊波が弾けた。その身体が地を滑るように後退する。
青銀の羽刃が頬一寸を掠め、氷のような冷気が黒髪を揺らした。
(――速い)
だが、見切れぬ速さではない。宗門へ入ってから幾度も刃を交えてきた。朔月の歩法も、癖も、呼吸も、正雪は知っている。
「逃がさないわよ、正雪!」
少女の声が宙へ弾ける。次の瞬間、朔月の姿が霞となった。
左。
上。
そして背後。
三方向から同時に短剣が迫る。
正雪は霊刀を横一文字に構え、左掌から剛力の霊気を刀身へ叩き込んだ。
「――《分刃》」
刹那。一振りの霊刀が三本へ分裂する。鋼と鋼が激突した。
――ギィィィン!!
三方向すべての斬撃を、寸分違わず同時に受け止める。火花が爆ぜ、霊気の奔流が石畳を削った。
【交差する想い ~ 訣別と覚悟】
甲高い金属音が闘技場へ響き渡る。青白い火花が吹き荒れ、二人の霊力が正面からぶつかり合った。
刃越しに、視線が交差する。
「……手加減という言葉を忘れたらしいな、朔月」
正雪が低く言う。
朔月は薄く笑った。
「当然でしょ」
彼女の瞳には迷いがない。
「あなたはもう、“試す相手”じゃない。――同じ戦場へ立つ修道者よ」
その言葉には、宗門を背負う者としての誇りが宿っていた。激しく押し合う刃の中。朔月がふいに囁く。
「ねえ、正雪」
「なんだ」
「日賀島を見た時……泣いた?」
その一言は、刃より鋭く正雪の胸を刺した。霊刀を握る手が、わずかに震える。
「……泣いてない」
「嘘」
朔月は即答した。
「宗門へ戻った夜、目が赤く腫れてた」
「……風のせいだ」
朔月は小さく笑った。だが次の瞬間、その表情は鋭く引き締まる。
「なら――その涙を力に変えなさい」
轟、と霊力が爆ぜた。闘技場の落葉が舞い上がり、風が鋭く唸る。朔月の背後に、淡い光で形成された巨大な鶴の幻翼が現れた。
羽根一枚一枚が霊刃そのもの。
観客席がどよめく。
「奥義――《千鶴流華》!!」
鶴の霊鳴が響いた。瞬間、空間に霜の紋様が走る。無数の羽刃が嵐となり、正雪へ降り注いだ。逃げ場を完全に封じる、朔月最大の秘奥。
(――来る)
正雪は深く息を吸い込んだ。肺へ霊力を満たし、両掌へ流し込む。
「《法螺盾》!!」
轟音と共に、水紋を伴った巨大な盾が出現した。それは巨大な法螺貝の形を成し、渦巻く潮流を纏っている。
羽刃の嵐が激突した。
――ドドドドドドッ!!
凄まじい衝撃が闘技場を揺らす。だが法螺盾は砕けない。潮流が衝撃を分散し、羽刃を呑み込み続けていた。
【潮鳴の逆転 ~ 法螺の反撃】
朔月の瞳が驚愕に見開かれる。
「……止めた!?」
だが彼女は即座に霊力をさらに高めた。
「なら――押し潰す!!」
《千鶴流華》が再び咲き誇る。羽刃の密度が倍増し、青銀の暴風となって法螺盾へ襲い掛かった。
正雪は盾を支えながら、深く息を吸い込む。砕けそうな霊盾。軋む腕。だが、その瞳は静かだった。
「同じ手が二度通じると思うのは――俺だけじゃないだろ、朔月」
正雪は法螺盾を口元へ掲げた。そして。霊力を込め、深く吹き鳴らす。
――ボォォォォォォン……!!
低く、重く、海底から響くような音が闘技場全体を震わせた。
「《三重潮鳴》!!」
第一波。
凄絶な音圧が羽刃の勢いを止める。
第二波。
鋭い振動が霊刃の軌道を乱し、砕き、弾き飛ばす。
そして――第三波。
圧倒的な潮鳴の衝撃が、朔月そのものへ直撃した。
風が爆ぜる。朔月の身体が大きく吹き飛ばされた。桃色の衣が舞い、彼女は闘技場の境界線外へ落下する。
静寂。
一拍遅れて――。
「勝者――正雪!!」
歓声が爆発した。闘技場全体が揺れるほどの熱狂。正雪は肩で荒く息をしながら、霊刀をゆっくり鞘へ収めた。
霊力は限界寸前。膝がかすかに震えている。
一方、朔月は地面へ座り込んだまま、晴れやかな顔で空を見上げていた。
「……強くなったね、正雪」
正雪は苦笑しながら答える。
「運が良かっただけだ」
そして静かに続けた。
「朔月の技は……綺麗だった。恐ろしいくらいに」
朔月は立ち上がる。そして得意げに胸を張った。
「綺麗さなら、この朔月が宗門一番だから」
彼女は右手を差し出す。
「次は負けない。今度は、この奥義を破れないくらい強くなる」
正雪もまた、その手を握った。
「望むところだ」
二人は静かに笑い合う。戦友として。そして、同じ道を歩む道友として。
【弐階組・第四試合――霊獣の威】
――ゴォォン。
重く澄んだ鐘声が、霧獣法流の演武道場に響き渡った。
その音は結界を震わせ、空気に漂う霊気を揺らし、観客たちの胸奥にまで鋭く染み込んでゆく。薄霧が地を這い、石畳の隙間から淡い霊光が滲み出る。まるで戦場そのものが、生き物のように呼吸しているかのようであった。
――弐階組・第四試合。
正雪にとって、本日二度目の戦い。
昨日の初陣から続く連戦を潜り抜けてきた彼の霊脈には、既に隠しきれぬ疲労が蓄積していた。経絡は熱を帯び、丹田の霊力も万全には遠い。だが、それでも歩みは止まらない。
ここに残る者は皆、選び抜かれた強者。敗北は即ち脱落。わずかな油断、ほんの一瞬の躊躇すら、命取りとなる領域である。
正雪は静かに息を吸い込み、霊刀を腰に提げたまま、結界内へ足を踏み入れた。
対面に立つのは、巨岩の如き体躯を持つ少年。鋭い双眸には獣のような獰猛さが宿り、その腕には無数の古傷が刻まれている。
――廉之助。
弐階にありながら成熟した霊獣を従える異端の御獣師。霧獣法流でも、その名を知らぬ者はいない。
審判を務める長老が、古びた巻物を開いた。
「――本試合、廉之助の要請により、《霊獣戦》とする」
その宣言と同時に、場内が大きくどよめいた。
霧獣法流において、霊獣戦の申し出は絶対である。拒否権は存在しない。霊獣と契約を結んだ以上、その絆と支配力を示すことは、御獣師としての義務であり誇りだからだ。
だが通常、弐階の修仙者が霊獣戦を望むことはほとんどない。この境地で従える霊獣は、せいぜい幼体。実戦に耐えうる存在など滅多に現れないからである。
しかし――廉之助は違った。彼は常識の外側に立つ者。成熟した霊獣を操り、その獣性すら完全に制御する、異質の修道者だった。
廉之助は唇を歪め、獲物を見下ろすように笑う。
「正雪。噂は聞いているぞ」
「お前の霊獣――まだヒナ鳥らしいな?」
「そんな愛玩鳥で、この俺に勝てると思うなよ」
その言葉が落ちた瞬間。
――ゴゴゴゴゴッ!!
大地が揺れた。石畳に亀裂が走り、霧が弾け飛ぶ。次の瞬間、結界の内側から巨大な黒影が這い出した。
観客席から悲鳴にも似た息呑みが漏れる。
――花鰐。
巨大な鰐の姿を持つ霊獣。
全長は十丈近く。背には花弁を思わせる幾重もの硬質甲殻が連なり、その隙間から紫黒の霊気が噴き出している。口が開く。ずらりと並ぶ牙は毒花の棘のように妖しく濡れ、吐息だけで空気を腐食させた。
低い咆哮が響くたび、結界の霊膜が微かに震える。それはもはや霊獣ではない。小さな災害そのものだった。
廉之助と花鰐。
その両者の眼差しは完全に一致していた。
――獲物を見る捕食者の目。
正雪は、その凄まじい威圧に一瞬だけ息を呑み――次の瞬間、顔色を変えた。
「ちょ、待ってくれ!!」
場違いなほど慌てた声が響く。
「霊獣戦になるなんて聞いてない! 俺、霊獣を連れてきてないんだが!?」
一瞬、道場全体が静まり返った。長老の眉がぴくりと動く。
「……連れて来ていない、だと?」
声には呆れを通り越した冷気が混じっていた。
「霧獣法流に身を置く者として、それはあまりにも愚かな失態だぞ、正雪」
観客席から失笑が漏れる。
しかし正雪は必死だった。
「いや、いるんだ! ちゃんといる!」
「ただ……今は卵を温めてて……飛べないし、まだ小さいし……今日が霊獣戦なんて思わなかったんだって!!」
場内の空気が妙な沈黙に包まれる。
やがて長老は深々と溜息を吐いた。
「理由は問わぬ」
「霊獣戦を宣言された以上、霊獣を伴わぬ者に戦う資格はない」
その視線が鋭く細まる。
「試合終了刻限までに連れ戻れぬ場合――敗北とする」
「……走れ、正雪」
その言葉が落ちるや否や。
「了解ッ!!」
正雪は霊力を爆ぜさせ、結界を飛び出した。風を裂き、霧を踏み砕き、石階段を一気に駆け下りる。道場中の視線を背に受けながらも、その背には不思議なほど清々しい気迫が宿っていた。
呆れられようと、笑われようと。それでも彼は、自らの霊獣を信じていた。
――まだ幼くとも。
――未熟であろうとも。
共に歩むと決めた“道友”を。




