第17話 残燼の海島
【残燼の海島】
潮風が、止んでいた。いつもなら絶え間なく吹き抜けるはずの海風は影を潜め、大洋の轟きすら遠く沈黙している。
空は鉛色の曇天。湿り気を帯びた空気には、微かに灰と血の焼ける匂いが混じっていた。
正雪は、焦土と化した大地の上に立ち尽くしていた。信じられないものを見るように、ゆっくりと周囲を見渡す。
――ここは、日賀島。
数日前まで、朔夜と朔月と共に笑い合い、長角魚鱗獣の捕獲作戦を練っていた修練の島。活気に満ち、霊獣の鳴き声と弟子たちの声が響いていた場所。
それが今は――。黒く焼け落ちた梁。崩れた石壁。炭化した木々。粉砕された瓦礫の山。地面には折れた精鉄剣が突き刺さり、散乱した矢羽には乾いた血がこびりついている。
砕けた霊器からは、なお微かな霊光が漏れていた。ここで確かに戦があった。しかも、一方的な破壊だったのだ。
正雪の胸が、強く軋んだ。
「……朔夜」
掠れた声が漏れる。
「朔月……!」
叫びは、焼け野原の空へ吸い込まれていった。返事はない。生者の気配もない。
草木一本に至るまで、霊気が死に絶えている。静かすぎた。その静寂こそが、かえって凄惨さを際立たせていた。
胸が締め付けられる。焦燥が喉を焼き、息を吸うだけで痛みが走った。
正雪はすぐさま霊力を練り上げる。両指を立て、空中へ細やかな符文を描いた。淡い青白い光が指先から流れ、空中に伝言術式が形成される。
――伝言符。
最後の一画を書き終えると、符は「ぽう」と小さく音を立て、火玉へ変化した。それは生き物のように空へ舞い上がり、灰色の雲間へ消えていく。
正雪は、拳を握ったまま待った。心臓の鼓動だけが、やけに大きく響く。
数息後。
――ヒュルルッ。
風を裂く音。火玉が急降下し、正雪の前へ戻ってきた。彼が受け取った瞬間、小さく弾ける。散った光が空中で文字を形作った。
『戻レ。宗門ヘ。――朔夜』
その文字を見た瞬間。正雪は、ようやく息を吐いた。膝から力が抜けそうになる。生きている。少なくとも、朔夜たちは。
それだけで、胸を覆っていた暗雲がわずかに晴れた。だが同時に。胸の奥では、別の炎が静かに燃え始めていた。
(……守れなかった)
(俺がもっと強ければ――)
唇を強く噛み締める。血の味が広がった。正雪はゆっくりと振り返る。
焼け落ちた島。灰となった修練場。仲間たちが積み上げてきた日々。その全てを瞳に刻み込み、静かに誓う。
(必ず強くなる)
(この借りも、この痛みも……絶対に忘れない)
彼はもう振り返らなかった。灰を踏みしめながら、決然と歩き出す。その背を見送るように、風が静かに吹き抜け、焦土の灰を空へ舞い上げた。
【霧獣法流の防衛線】
半月後。長い旅路を越え、正雪はようやく霧獣法流の本拠地へ帰還した。
山門をくぐった瞬間。見慣れた二人の姿が目に入る。
朔夜。そして朔月。その瞬間、張り詰めていた緊張が一気に解け、全身から力が抜けそうになった。
「……本当に、無事でよかった……!」
心の底から漏れた言葉だった。だが、朔月の表情は暗い。腕を組み、いつもの快活さを潜めている。
「安心するのはまだ早いよ、正雪」
彼女は低く言った。
「襲われたのは日賀島だけじゃない」
「霧獣法流の外縁拠点、その半分近くが黒衣の集団に襲撃された」
正雪の瞳が揺れる。朔夜が静かに続けた。
「敵の目的はまだ不明だ」
「だが、奴らは霊獣と霊宝を重点的に狙っていた形跡がある」
「おそらく――一ヶ月前、紗綾さんを襲った連中と同じ系統だろう」
空気が重く沈む。宗門全体が緊張に包まれているのが分かった。巡回する弟子の数も増え、至る場所に新たな結界符が貼られている。
朔夜は深く息を吐いた。
「現在、宗門は防衛線を再編中だ」
「三日以内で相互救援できる範囲まで拠点を縮小した」
「結界と法陣も強化している」
その声音は静かだった。だが、その奥には確かな危機感が滲んでいる。
「……これは、戦の時代の始まりかもしれない」
正雪は無言で拳を握った。自分の無力さが、胃の奥に鉛のように沈んでいく。もし自分がもっと強ければ。もし、もっと早く動けていたなら。
だが――。
朔夜の声が、再び響いた。
「だが、防御だけで終わるつもりはない」
その瞳には、静かな闘志が宿っていた。
「三ヶ月後――熊野三峯主催の宗門試合が開かれる」
「熊野全域の宗門が集う大舞台だ」
「霧獣法流が生き残っていることを示し、威信を保つためにも、絶対に負けられない戦いになる」
朔月が口を開く。
「その代表を決めるため、七日後に宗門内部の選抜試合がある」
「正雪、お前も出る?」
正雪は迷わなかった。胸の奥に燃える悔しさ。守れなかった無力感。そして、強くならねばならないという焦燥。
その全てが、彼の答えだった。正雪は静かに顔を上げる。その瞳には、以前よりも鋭い光が宿っていた。
「――もちろんだ」
【精魂丹薬と六羽蝶衣】
霧獣法流の山門へ戻った正雪は、長旅の疲労も癒えぬまま、自室へと足を踏み入れた。
木窓の隙間から差し込む夕陽が、薄く舞う塵を金色に染めている。部屋の中央には河童の壺が静かに据えられ、その内側からは潮騒にも似た微かな水音が響いていた。
正雪は荷を下ろすと、深く息を吐き、壺へ視線を向ける。
「梨花、魚と阿古屋貝の様子はどうだ」
水面が揺れ、貝妖・梨花が姿を現した。長い髪を潮のように揺らしながら、彼女は嬉しそうに微笑む。
「順調だよ。潮鳴法螺のおかげで、水流も潮汐も完全に再現できてる。みんな元気すぎるくらい」
その直後――。部屋の奥から、耳をつんざくような鳴き声が響いた。
「クルルゥゥゥーーッ!!」
霊鳥クルルである。その鳴き声には、霊魚を寄越せ、腹が減った、今すぐ食わせろ――とでも言わんばかりの圧が込められていた。
正雪は額を押さえ、小さく苦笑する。
「……本当に底なしの胃袋だな、お前は」
横で、翠緑の肌をした仙蛙・翠夏が肩を揺らして笑った。だが、正雪の瞳には別の熱が宿っていた。翠夏はそれを見逃さず、にやりと口角を吊り上げる。
「ところで正雪――宗門試合、出る気なんだろ?」
「当然だ」
その返答に、一切の迷いはなかった。正雪は静かに拳を握り締める。
「今回の優勝賞品は、“精魂丹薬”だ」
精魂丹薬。それは魂魄を鍛え上げ、修仙者の霊格そのものを高めると伝えられる秘丹。参階への道を切り開く神薬とも称され、宗門内でも滅多に姿を現さぬ至宝であった。
正雪の胸奥に、静かな炎が灯る。――強くならねばならない。黒衣の襲撃。焼き払われた日賀島。無力感。守れなかったもの。
あの悔しさは、未だ胸の底で燻り続けている。
「それに……」
正雪は自らの手首へ視線を落とした。そこには淡い銀光を帯びた紋様が浮かんでいる。蝶の羽を思わせる六枚の紋。
――六羽蝶衣。
師・道斎が遺した霊装。
大アワビとの死闘の際、暴流の中で正雪を守った神秘の霊衣である。あの時、巨大な繭となって彼を包んだ力は、今や薄膜のように肉体へ溶け込み、静かに眠っていた。
だが、完全には扱えない。
ほんの一瞬だけ発現し、霊力を喰らうように消える。まるで未だ主を試しているかのようだった。
(もし自在に扱えれば……宗門の戦力を変えられる)
その時。梨花がふと思い出したように問いかける。
「そういえば……大アワビの卵は?」
正雪は無言で部屋の隅を指差した。
そこには――。巨大な深海卵を抱え込み、翼で包み込むように温めているクルルの姿があった。その顔はどこか誇らしげで、完全に“親鳥”の顔である。
室内が沈黙する。
やがて翠夏がぽつりと呟いた。
「……本能というのは、時に恐ろしいものだな」
正雪は思わず吹き出し、小さく肩を震わせた。
【潮鎮術の奥義】
夜。月明かりだけが差し込む静寂の中、正雪は机に置かれた一枚の貝殻を見つめていた。それは、伝説の海女・汐里が遺した秘術書。
《潮鎮術》。
貝殻の内側には、霊力で刻まれた青白い術式が浮かび上がっている。波。潮。海底。嵐。海霊。
海そのものを支配し、調律する六つの秘法。その第一術こそ――《弄海印》。
潮の流れを操り、水霊の巡りを掌握する基礎にして根源の術。だが、その本質は単なる水操作ではない。
海とは流れ。流れとは循環。すなわち、“霊力そのものの律動”を制御する技であった。
正雪は七日間、ほとんど眠らなかった。食事も削り、ただひたすら霊力を練り続ける。印を結び、失敗し、霊脈を暴走させ、またやり直す。
霊力が枯渇し、指先が痙攣しても、彼は止まらなかった。
深夜。壺の中の潮流だけが静かに揺れる。正雪は座したまま、己の内なる海を見つめていた。丹田の奥。そこには、月光のように淡い霊気の海が広がっている。
その流れを感じろ。乱れではなく、循環を。抑え込むのではなく、導け。
そして七日目――夜明け直前。正雪は静かに両手を構えた。呼吸が止まる。霊力が掌へ集束する。
次の瞬間。掌に、青白い水紋が浮かび上がった。波紋は静かに広がり、空気そのものを震わせる。
《弄海印》。
ついに術が完成したのだ。
「……間に合った」
正雪は深く息を吐いた。その瞳は以前よりも澄み切り、霊気の流れは格段に精妙となっていた。潮鎮術は、確かに彼を新たな領域へ押し上げ始めていた。
【選抜、決戦の火蓋】
七日後。霧獣法流・中央闘技場。巨大な石造りの円形闘技場には、数百を超える弟子たちが集結していた。空気は熱を帯び、無数の霊気がぶつかり合い、まるで嵐の前兆のような圧を生み出している。
宗門選抜試合。熊野三峯主催の大試合へ出場する代表を決める、重要な戦いである。
正雪は闘技場の入口に立ち、静かに目を閉じた。
(勝つ)
宗門の未来のために。己が進むために。そして――失ったものに報いるために。
審判が中央へ進み出る。その声は雷鳴のように場内へ響き渡った。
「弐階組――第一試合!」
ざわめきが広がる。
「正雪――対――朔月!!」
一瞬、観客席がどよめいた。まさかの初戦。しかも、仲間同士の激突。
その時。桃色の道衣を翻し、朔月が闘技場へ姿を現した。長い髪が風に舞い、その瞳には強い闘志が燃えている。
「まさか最初から、あんたと戦うことになるなんてね」
彼女は口元に笑みを浮かべた。
「――遠慮なく行くよ、正雪」
正雪は腰の霊刀を静かに抜き放つ。刃が月光を受け、青白く煌めいた。
「……望むところだ、朔月」
二人の霊気がぶつかり合う。空気が張り詰め、闘技場から音が消えた。風すら止まる。審判の手が、高々と振り上げられる。
「――試合開始!!」




