第1話 星空の下で
「……? あれ。なんだろ、ここ」
わたしが目を覚ましたのは白い、白い部屋だった。ツンとした消毒薬のような匂い。埃も舞わない隅々まできれいな場所。知ってるような、知らないような。
「……わたしは、なんなんだろう」
思い出せるものがない。わかるのは、目の前に広がる景色だけ。頼りなのは五感だけ。一体、わたしは誰なんだろう。なんでこんなところにいるのかな。
「……? これが、わたし?」
ぺたぺたと、確かめるように身体に触れる。細い線、ぷにぷにとした感触。部屋の大きさの割に小さな身体。体操でもするようにねじってみると、なるほど。なかなか動かし慣れてるね。
「うーん……たんけん、しよっかな」
わたしの高い声が部屋に響いた。天井は手を伸ばしても届かない。ドアは奥にあるが、先に部屋の中を探ってみようか。
気を取り直して見てみると、どうもかわいらしい部屋だ。赤や水色、緑やピンク。いろんな色のクッションが転がり、絵本やつみ木が転がっていた。その静かな賑やかさがまた、わたしの心を惹き寄せる。
「……あっ、絵本だ」
一つ、かわいい絵柄の本が目に入った。わたしにとって、何か大切そうなもの。わたしの中で何かが、この本を懐かしがっている。
◇
むかしむかし、そこにはこわ〜いオニがいました。オニはにんげんのすがたをマネします。にんげんにまぎれて、にんげんをたべてしまうのです。
だれかがいいました。「オニをみわけるのはむずかしい!」
けれど、だれかがまたいいました。「オニはにんげんのことばをしゃべることができないんだ」
なるほど! それならみわけがつきそうです。みんなは「それならあんしんだ」といって、すっかりきをぬいてしまいました。
けれど、オニをみつけてもにんげんはたべられてしまいます。なぜならつよいからです。オニはにんげんとくらべて、とってもつよいのです。
「このままではみんなしんでしまう」
だれかがそういいました。みんながたべられてしまっては、ここはなくなってしまいます。しかしそこに、ヒーローがあらわれました。オニとたたかえるにんげんです。とってもつよく、みんなにきぼうをあたえます。
「わたしがオニをたおそう。だからあんしんするといい」
……
◇
「あっ、こんなに読むヒマはないんだった」
すっかりわくわくしながら読んでしまったが、今は記憶を取り戻さないと。とはいえこれは、わたしの記憶と強く繋がっている気がする。
「よしっ、とりあえず出よっかな」
本を片手に、わたしはまた立ち上がった。よろりとゆれることもなく、小さな足はちゃんと地面を踏んでいる。
一歩、また一歩とドアに近づく。向こうにはなにがあるのかな。なにが広がっているのかな。興味と少しのこわさ。とくとくと鳴る胸を聞きながら、ドアノブに手を伸ばした。瞬間、視界がぱっと広がる。
「わっ——!」
眩しい光——天井から刺さる光にまぶたが閉じる。絵本で視界を守りながら、すこし。すこしずつ目を開けた。長い廊下、いくつかの部屋。振り返ると、わたしがいたのは部屋の一つだ。
「——メイ」
名札みたいな。ドアの外側にかかっていた名前を読んだ。胸にすとんと落ちる、柔らかい名前。わたしに馴染む名前。「メイ」とはわたしのことなのかな。
「向こうか、それとも……他のお部屋?」
誰が聞いてるわけでもないのに、わたしは一人、つぶやいていた。廊下は右側に伸びていて、左側には壁がある。わたしが今までいたような部屋がいくつかあるけど、直感っていうのかな。探し物は部屋にはない気がする。
しかし、驚くほどに無人だ。外——ずっと外からはガラゴロと音がするようでもあるし、それも空耳な気さえする。この空間そのものも、病院みたいで、どこか大きな保育園みたいでもある。わたしはここを、知ってる気がする。
「……んっ、ふふっ。行こっ」
どこか浮ついた声で廊下を進んだ。なんでかな。こんなにおかしい場所なのに、わたしはあんまりこわくない。涙は出ないし、出したいとも思わない。わたしはこの場所が好きなんだ。
「でも、なんで人がいないんだろ。それとも、わたしみたいに部屋にいたのかな」
先には階段が見え始め、下に降りることもできそうだけど。確認するのも悪くない。別に、急いでるわけでもないからね。
「おじゃましまーす……」
ぼそぼそとした細い声とともに、近くの部屋をのぞいてみた。変わらず、散らかったような、整ったような部屋。わたしのものとそう違わない。となると、やっぱり人はいないのかな。
「……まぁいっか! よくないけど!」
そのままドアを閉め、廊下に戻る。人がいないことは問題だ。でも、それは後。わたしのこともわからないのに、人のことなんてわかるわけがない。まずは自分のこと、それが先だ。
床を叩く足音を響かせながら、また進み、そして階段に差しかかった。下へと進む道、右と左にも分かれている。けど、たぶんそっちは同じ部屋だ。相変わらずの直感ではあるけど、ひとまず下が進む道かな。
「……んっ?」
階段を降りている最中、その踊り場。壁にいろんなものが貼ってあった。ポスターやらなにやら。その中に一つ——一つではないけど、星の形のふせん。あるいは折り紙なんかが飾ってあった。それが不思議と目に焼きつく。
『せんせいたちにほめられたい!』
「あっ、これ……」
中でも目を引いた一つの星。揺れたえんぴつの線、きたない字。それがわたしのものであることは一目でわかった。「メイ」とは書かれてないけど、これはわたしのものだ。
「……やっぱり、わたしはここで過ごしてたんだ」
無意識に、絵本を抱える手に力がこもった。わたしはメイ。ここで過ごしていた。そして「先生」がいる。いや、「いた」か。どっちにしてもここは、病院かなにかなのか。
「とりあえず下に行こっ。記憶を戻さないと」
なんとなく、形は分かってきた。けど、ここがなんなのか、なんで記憶を失くしたのか。そこが分からないまま。それがわからないと、わたしのすべきことがわからないままだ。
とにかく、今考えてもまとまるものじゃない。いろいろ回って、それで少しずつヒントを見つければいい。そう思いながらまた一つ、階段を降りる。少しようすの変わった空間が広がった。
「病院っぽくもあるけど……やっぱり人はいないのかな。……ん?」
部屋に続くであろうドアが並ぶ中で一つ、不思議な雰囲気のドアがあった。——空気が流れている。思えばこの建物は窓はところどころにあるけど、そこから外を見ることはできない。もしかしたら、あれは——
「外、かな」
なんとなく、開かない気もする。だけど開いたとしたら。玄関ではないだろうけど、中庭とかかも。それでも、もし外に出られるなら。この建物のことがわかるかも知れない。わたしはただ、その一心でそのドアに向かった。
「っ……わ!?」
がちゃ、と鳴りながら、ドアノブが下がった。開いたという驚きと、それ以上の動揺。ドアを開けた瞬間、流れ込んだのはもわっとした熱風だった。
「けほっ、けほっ……火? なんで……?」
パニックというほどでもないが、わたしの頭にはハテナだけが浮かんでいた。見渡す限りのオレンジ色。ごうごうと鳴る火が庭を燃やし、視界を遮っている。進むだけならできるかもしれないけど、そんな危険を進むべきなのか。
「……また後かな。どうしても行かなきゃいけなくなったら——」
折り返そうと、そのとき。火の光の中に影が落ち、わたしを覆った。咄嗟だった。わたしはその影を見上げた。
「へっ……え?」
高い背丈、わたしの身長ではその顔を判別できない。それでもおかしいのはわかる。緑と黒が全身を包み、確かに人っぽい姿をしている。確かに立っているし、手がある。でも——それはわたしの知ってる人間じゃない。
「だ、誰……?」
「■◇■■◇? ■△◇◇◇□◇○△□?」
「っ……!」
背中に走るぞわりとした感触が、生きた心地を忘れさせた。冷や汗が止まらず、わたしはすぐに走り出した。背を向けて、ドアを閉めて、まだずっと。息が荒れるのも知らずに、ただ走った。
「はぁっ、はぁっ……! ぐぁっ!」
足がもつれ、そのまま転がる。気づいたときには、わたしがいたのはなにかの部屋の前だった。階段を上った覚えはない。真っ直ぐに走ったのか。中には遊び場のようなものが見えるが、しばらくは見向きもできない。
「うぅ……なんなんだ、あれ……っ」
絵本を抱えながら、震える身体を押さえていた。ふと、表紙が目に入る。人間の姿、そして言葉を喋らない。——いや、まさか。そんな、絵本じゃないんだし。
「……ふぅ、よしっ。追っては来ないんだね。中庭、火の中にいるのかな……」
息を整え、足を伸ばした。建物内なら襲われなさそうかな。だとしたらいいけど、油断はできないかもしれない。とりあえず整理したい、そう思ったわたしは背もたれにしていたドアを開けた。
——と、その先。小さな、けれど芯のある声が響いた。わたしに近くも感じる、男の子の声。
「おかあーさんのーためにー♪ 走るー走るー走るー♪ お星さまーのー下でー♪ ぼくら、走る、走るー♪」
彼は部屋の奥、その真ん中に座っていた。きれいな灰色の髪にわたしより少しだけ大きい身体。目をつむって、身体を小さく揺らしながらどこか楽しげにそんな歌を歌っていた。




