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はじまりの画帳  作者: うえのきくの
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『あっっっっっったまきた!!! あいつ帰ってきたら埋める、絶対モアイの前に埋める!』

『イズミーー、落ち着いてよぉ』

『これが落ち着いていられようかっっ』


 約束のカフェのテーブルには大きく画用紙が広げてあった。泉があまりに髪を振り乱し、なにやらスケッチブックに書きなぐっているので、少し怯んだ透は後ろから二人の会話を眺めていた。どうやら猛り狂った泉を夏希が諌めているようだ。


 それにしても書く、という行為はなんと慎ましいのだろうか。これだけの怒りを当たり前に吐き出していたら、今いるカフェ中の注目を浴びてしまうだろう。しかし二人は静かに激昂を放っている。

 そして

『……でもなんで、こんなこと書いてきたのかなあ……なんか悪いこと言ったかなー』

『きっと、悲しいことがあったから、甘えちゃったんだよー、イズミに』

 こうやって自分の発言を客観的に見て早めに軌道を修正できるのだ。


『こんにちはー』


 透は立ったまま、メッセージを書き込む。二人が同時に顔を上げた。 

 改めて紙に撒き散った言葉を拾って行くと、どうも荒ぶりの矛先は賢一郎のようだ。まだ帰ってきていない彼と、何が原因でもめることになったのだろう。


『タドケンに、いつ帰ってくるのー? って聞いたら、そんなのわかんないよっ、てキレちゃって』


 ご様子うかがいに、泉は賢一郎に連絡をした。するといつもよりかなりトーンの低い彼は、泉の質問をのらりくらりとかわすばかりだった。埒が明かないので『早く帰ってこないと前期テスト始まっちゃうよ。いつ帰ってくるの?』と聞いたところブチキレたらしい。

『僕はイズミと違ってデキが良くないから放っといてくれ』『帰っても帰らなくてもイズミには関係ない』『僕なんていてもいなくても同じだ』……言うだけ言うと電話を切ってしまったそうだ。

 そのあとは電源を落としてしまったのか連絡はつかなくなった。


『うーーん。たぶんさ、この間イズミの審査結果待ってる時には、おばあさんの具合が悪いって聞いてたんじゃないかと思うんだ』

『え、どうして?』

『バイトを増やしたって言ってたでしょう? おばあさんしか実家で彼の今の進路を賛成してくれている人がいないっていうのは、知ってた?』

『それは、聞いたことある』

『学費はおばあさんから借りてて、画材とか生活費はバイトで賄ってるっていうのは』

『知らなかった。小遣いもらってないからバイトしなきゃって言ってたけど』


 この子達には言っていなかったのか。

 泉は母子家庭とはいえ本人はバイトもしていないが特に困った様子はない。夏希は仕送りもあるがアルバイトもしっかりしている。それに、同居の姉も仕事をしているのでそうそう困らないだろう。

 二人に対して引け目を感じていて、言えなかったのか。

 透に教えてくれたのは顔見知りではあるが親しくはない間柄だったからなのだろう。


『それでおばあさんが危なくなって、学費の心配をしてバイトを増やして。あの時顔色も悪くて痩せてた。そこへ持ってきて、イズミがコンクールで大賞を受賞して、少しの劣等感とすごい焦りを感じたのかもしれないね』

『そんなこと……』

『ないって言える? 想像してみて、もし自分がタドケンの立場だったらって』


 自分は来年、いやもしかしたらもっと早く大学に通えなくなるかもしれない。芸術科の学費はなかなかに高い。

 時給と働ける時間の計算をしたかもしれない。学校へ行けなくなる程バイトを詰めては本末転倒だ。しかしこのままでは後期の学費は納められないかもしれない。

 そんな時にもたらされた、友人の華やかな成功。

 学んでいることが違うのだからお互いの成績や評価を比べられるものでもない。

 頭ではわかってても人のチャンスを喜べないときもある。今まで仲良くやって来たから余計に。そして感情を爆発させたあとどうしていいのかわからなくなったのだろう。


『どうしよう……』

『イズミが気にすることないと思うな。なにも悪いことはしてないよ』

『でも……』


   夏希がペンの先をグリグリと押し付けて文字にならない模様を描く。もどかしさを表しているようだ。そして、ポツリと書き出した。


『わたし、行ってみようかな』

『え?』


 泉が少し首をかしげて聞き返す。どこに、透が言うが早くさらにメッセージが続く。


『東北だったよね、タドケンの家』

『迎えに?』

『そう。だってこのままなんてもったいないよ。いまからだったら前期テストも間に合うし』


 そうだ、もったいない。その事に彼が気づいていないなら、少し話をしたほうがいい。


『私も行きたい、けど』

『都合悪い?』


 言いづらそうに泉がうつ向く。ちょっとふてくされたような顔になる。


『この間のコンテスト、いろんな会社の人が話を聞かせてくれって来てて、なるべく対応するようにって大学から言われてて』

『ああ、いつアポが来るかわからないんだ』

『一、二ヶ月ぐらいは様子見てって』

『じゃあ、俺が行く』


 一斉に二人がガバッと顔を上げた。そして透の顔を見る。二人とも同じように目が真ん丸で面白い。

 透にも思うところがあったのだ。一ヶ月と少しの間、彼の回りで起こった様々なこと。


『会社でね、いろんなことがあったんだ。ここしばらく。会社の先輩が倒れたり、別の人がちょっとした事件起こしたり会社クビになりそうだったり。だけど、親身になってくれる人や助けてくれる人がいてなんとかなった』


 鈴木はなんとか復帰して、上司や専務たちが配慮してくれるからきっと会社を辞めたりはしないだろう。小澤が戻ってくることができたのは何よりも相手の親御さんが寛大だったからだろう。とても公平に小澤と自分の娘を見ていた。きっと、とても辛い決断をしたはずなのに。


『それでも、どうにもならなかったことはある。関わった人たちがみんな、自分にできる限りのことをした。考えて考えて、それでもどうしても助けられなかった』


 小さな命は誰に抱き締められることもなく無くなってしまった。あれが最善の方法だったと、もしくは最悪の間違いだったと誰にも言えるわけがない。

 関わった人たちが短い時間のなかで必死に考えた、それだけだ。


『結果、なにもできなかったとしても、自分に出来ることをしたいんだ、全部。せっかく知り合えて、俺はタドケンのことすごく頑張ってる努力家だと思って尊敬してる。だから、なにかできたらな、と思って』


 ただ考えただけ、悩んだだけだったとしてもしないよりはいい。自己満足でも押し売りだったとしても、あのときすればよかったと悩むのは嫌なのだ。


『酒井さん……一緒に行こう! タドケン、連れて帰ってこよう!』


 夏希が立ち上がり、二人はがっしりと握手をする

 必ず話をして一緒に東京に帰る。

 もしかしたら夢は夢のまま諦めなくてはいけない時が来るかもしれない。でもそれは今じゃない。努力して努力して、それでも学芸員になれなかった時は、生きていくために違う仕事をしなくてはいけないかもしれない。しかしそれは自分で別の道を選んだときであってほしかった。



 金曜日が公休の透が、前日の夜に夜光バスで出発し、翌日の夜行で帰ってくることを提案した。ゼロ泊三日の弾丸ツアーだ。


 東京駅から北に向かうバスは三列独立シートで想像よりゆったりしているようだ。チケットの手配を買って出た透はパンフレットを見て驚いた。完全リクライニングの椅子に毛布の貸し出しサービス。トイレもついているバスなんて初めて乗る体験だ。

 ひとつだけ問題があるとすれば賢一郎と全く連絡がとれないため、もしかしてすれ違ってしまう可能性がないとは言えないことだ。その時は……まあ仕方がない。せっかくだから観光でもするよりないだろう。


 待ち合わせは二十一時に新宿。透は会社から一度帰って支度をして家を出た。支度と行っても泊まりではないので荷物は少ない。早めの集合にしたのはあちらでのプランが全くなかったからだ。

 土地勘は一切ない。初めて訪れる場所だ。正直、地図アプリなどがない時代なら、こんな無謀な冒険はしない。


(まだ若いって証拠かね)

 急に思い立ったように自分も一緒に行く宣言をした数日前の自分を苦く笑う。

 彼らよりも交流の浅い自分が行ったところで、何が出来るかはわからない。でも、じっとしていられなかった。

 透は自分が家業を継ぐことを、今でも踏ん切れないでいる。このまま帰らず東京で生きていく方法もない訳じゃない。

 予定していた期間が過ぎたら実家に帰ってあの小さな画材屋で、いつか動けなくなる日まで働く。それだって食べていくには必死でやらなければ、継続していくことも難しいだろう。


 自分よりもずいぶん年下の彼が、もう何年も前にはっきりと自分の進路を決めていたことに、いたくショックを受けたこともあった。自分は何をやっているんだろうと落ち込んだ日は数えきれないほどある。

 それでも、彼らとの交流がなければ、自分は同じところに立ち止まったままだったかもしれない。親に反対されても、耳が不自由でもみんな自分の夢に向かって突き進んでいる。叶わないかもしれないなんてそんなのはあとの話だ。挑戦して、努力して、スッ転んでもまた立ち上がって。

 そんな彼らと知り合えたから、もっと先が見たいのだ。どんな作品を生んで、どんな研究を深めて、どんな将来の岐路に立つのだろう。

 そこまで一緒に行くことはできないけれど、見守っていたかった。




 高速バスが次々出発するターミナルは、記憶違いでなかったらごく最近できたものだと思う。ほとんど初めて利用する透には馴染みのない場所だった。


『こんばんは。体調どう?』

『こんばんは。大丈夫です』


 案内所の前で待っていた夏希に手話で話しかける。このくらいの挨拶は習得した。なにしろ夏希先生はとてもスパルタだった。今日は手話デーと決めたら本当に筆談はしてくれないのだ。そんな日は内容のある会話はほとんどできなかったが、こうしてスムーズに挨拶は出てくるようになった。流石である。


 出発まで小一時間あったので、ターミナルに隣接したビルのカフェで、今後の計画を練る。今日は大きいスケッチブックではなく、透の用意したポケットサイズで会話をする。


『明日は、八時三十分くらいに着くんだけど、とりあえずどうしようね。わりと駅から近くにタドケンちの病院あるんだけど、ここに自宅もあるかはわかんないんだよなー。朝早くからやってる飯食えそうなところは』


 隣でタブレットを開いて地図を見ながら検討する。 


『あ、お風呂屋さんでごはん食べられるー』

『朝風呂入ってここで飯にする? こっちの市場食堂もいいけどな』

『うーーーーん……そっちはお昼?』


 こんなことしてると遊びに行くみたいで気が引ける。透はぐるぐる見ていたタブレットのなかに、いつか賢一郎から聞いた県立美術館を見つけた。


『あ、ここ』

『タドケンが通ってたところだね。本当に病院のすぐそばだ』


 県出身の芸術家の作品を数多く所蔵している他に、建物の外にも大型の彫刻などが展示されているランドマーク。

 小さな賢一郎が首から下げたパスを少し誇らしげにかざして、中に入っていく姿も想像できて微笑ましくなる。


『行ってみたいね』

『うん。帰りのバスまで時間あるし、行ってみようか』

『楽しみ』


 デートみたいだ、なんて言ったらドン引きされるだろうか。友達のために一生懸命なこの子に嫌われるのだけは嫌だ。

 まったく、大人になると臆病になる。子供の頃みたいにとりあえずやってみようとは思えなくなる。

 好きな子にあまり後先考えず、好きだと言えたのはいつまでだっただろう。 

 考えてみれば夏希に恋人の有無も聞いたことはなかった。あれだけ課題をこなして、バイトをして、空いている時間は透たちとおしゃべりしている彼女に特定の誰かと合う余裕はないように思うが。

(でも、そういう時間は無理矢理にでも作るよな……)

 さくっと聞いてしまえばいいのにそれもできずにくよくよしている。遠い知らない土地にノープランで行ってしまう度胸はあるくせに、こんなところは小心だ。

 本当にバランスの悪く、めんどくさい大人になってしまったものだ。


 そろそろ時間になり、ターミナルの方へ移動する。深夜に皆、大きな荷物で先を急ぐ雰囲気は独特だ。透たちも予約したバスにテイクアウトしたコーヒーとちょっとしたおやつを持って乗り込んだ。

 座席のリクライニングシートは確認していたが、横の客との間に下ろせるスクリーンがあることは知らなかった。ちょっとした個室気分だ。

 独立シートなので隣の夏希との距離も遠い。スケッチブックを収納式のテーブルにのせメッセージを書き込む。


『そういえばなっちゃんは、深夜バスって乗ったことあった?』

『初めて。大冒険』

『俺も初めて。ワクワクする』

『公共の乗り物って、アナウンスとか聞こえないから不安なんだけど、これは乗ったら終点まで連れてってくれるからいいなー』


 なるほど、以前にも聞いたことがあったが、日常生活の中に意外な不便が転がっているのだ。

 耳が聞こえなければ緊急のアナウンスが聞こえないとか、車イスならほんの五センチの段差が越えられないとか。

 外からはわからないペースメーカー装着者や妊娠初期の女性も、みんなが普段何気なく行っているさまざまなことに、不安を覚えることがあるだろう。

 夏希のそばにいると自分だけでは気がつかなかったことが見えたりするから不思議だ。それがなんとか助けてあげようとかボランティア的な気持ちではなく、お互いに気持ちよくいられるにはどうしよう、と考えるようになったのは彼女の隣にいることに慣れたからなのだろう、きっと。


 彼女にとっての自分もそうだったらいい、と透は思う。それはつまり自分のことを考えてほしいということだ。一緒にいるときもいないときも、思っていてほしい。

(認めちゃったなー……)

 ますます東京から離れたくなくなったではないか。彼女を好きだと言う気持ちの前では、不思議と言葉のハンデは感じられない。彼女はどうだろう。つたない手話と筆談ではもどかしく思うだろうか。

 バスは夜の中を北へ進む。世界一有名なネズミのいるテーマパークを経由してお土産を持った客が乗ってきた。


『なっちゃん、ここ来たことある?』

『何回か。最初は中学の修学旅行。聞こえなくても結構楽しめるよ』

『ふーん。今度一緒に来よう?』

『うん』


 ちょっと顔がにやけている自信がある。みんなも誘おうって言われなかったことに。


『そういえばさ、こんなこと聞くのどうかと思ってたんだけど』


 テーマパークが最後の乗車箇所だったようで、社内はだんだんとスクリーンを下ろす客が目立ってきた。小さく聞こえていた話し声もだんだん聞こえなくなる。


『なんですか?』

『補聴器、着けてるでしょ? どのくらいの音が拾えるの?』


 全く聞こえなければ必要ないはずのそれは、彼女の耳から消えたことはない。だとすると多少は聞こえているということになるのだが。


『補聴器着けて、耳元の声がやっと聞こえるくらい。だから、普段の会話はゆっくり大きな声で、その人の顔見てならわかることもある』


 それならばと、透は体を乗り出した。そして夏希の耳のそばでゆっくりと話す。


「明日は、たくさん移動するから、早く寝よう。おやすみなさい」 


 夏希は驚いたのか体を小さく揺らした。そして慌てた様子で透を見る。

 自分の声が届いたようで満足した透は、眠る体制につくべくスクリーンを下ろそうとした。

 とん。

 左の肩が叩かれる。見ると夏希がこちらに乗り出していた。


「お や す み な さ い。ま た あ し た」 

「……うん」


 確かに彼女の声を聞いた。ちょっと鼻にかかったようなハスキーな声。

 以前に聞いた話では、彼女は生まれつき重度の難聴だ。病院や学校では、発声の勉強もしていたと。ただし健聴者と同じような発音はできないし、細かいところが伝わりにくいからもっぱら筆談なのだと言っていた。


 その彼女が、声を聞かせてくれた。

 それがこんなに嬉しい。

 しっかりと閉じたスクリーンの向こうで夏希も同じように喜んでいるだろうか。声が届いたことをどんな風に思っているのだろう。

 そんなことを考えたら、早く寝なくてはと思うのになんだか胸が騒いで目が冴えてしまう。

 タブレットに落とした音楽を流してなんとか眠りを引き込もうとする透だった。




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