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純白の手袋と怪雲の兆し




 

 鮮やかに色づいていた葉は全て落ち、冷たい風が吹き始めた初冬の昼間。

 やわらかな日差しが窓から差し込む中、藤崎和花は真剣に手元の本と向き合っていた。


 静かな部屋に、しゃらりと紙が擦れる音のみが響く。

 頁を捲るたび、ふわりと古臭い匂いが微かに鼻につくも、和花はそれに気を取られないほど集中していた。

 所々に挿絵はあるが、細かい文字が大量に並んだ分厚い本。

 表紙に『彩色書記』と書かれたこの本は、これまでにだいぶ読み込まれているのか、本の角や背表紙が少し禿げ、頁も色褪せているところがあり、古書であることが一目瞭然だった。


 和花の右手には代々藤崎家の者が受け継ぐ、不思議な力を宿している。

 しかし、数ヶ月前、元婚約者であった加納家での出来事をきっかけに、その力は衰えてしまった。失った力を元通りにする方法を探るべく、訪れた宮廷で皇太后から借りたこの本。

 自分の右手に宿る『彩色の手』と呼ばれる不思議な力について知ることができる唯一の手がかりとして、和花は壊れそうなその本を、宝物を扱うかの如く、優しく丁寧に読み進めていた。


(爪の色が変わるだなんて、やっぱり前例がないのかしら) 


 読み落としがないように、一頁ごとくまなく見ていくが、和花が求めていた答えはなかなか出てこない。

 和花は白いレース模様の手袋をはめた自分の右手を見つめた。


 この手袋の下の爪は元々、親指から赤、橙、黄、緑、青と一本ずつ爪の色が変わっていた。

 この爪の色が、彩色の手を持つ者の特徴である。

 しかし、あの日から和花の爪の色は深い闇のような黒一色に変色し、冷たくなっていた。


(一生このままだったらどうしよう……)


 普段は頭の片隅に隠れている不安が、ひょっこり顔を出し、和花を刺激していく。焦っても仕方がないと分かってはいるが、どうにも気持ちが収まらない。

 早く、早く解決策を見つけないとと焦れば焦るほど、頁を捲る手は早く荒くなっていった。


 ことり、と小さな音が耳に入ったのと、肩に温かさを感じたのはほぼ同時だった。和花は、はっと手を止め我に返る。

 視線を横にずらすと、机の上にはもくもくと湯気を立てた湯呑みが置かれていた。


(私、また本に没頭していたのね……)


 最近この本を読むといつもそうだ。妖にでも取り憑かれたかのように、本に吸い寄せられてしまう。つい先日も気付けば食事も取らず数時間ずっと読んでいたこともあった。

 和花は湯呑みからさらに視線を横に移し、お茶を淹れてくれたであろう隣に座る人物を見て、目を見開いた。 


「……あ!っえ?あ、あの……」 


 驚くのも無理はない。湯呑みを載せていたであろうお盆を手に優しい笑みを浮かべていたのは、和花の恋人、いや婚約者である九条蒼弥だった。


 藍色の着流しを着ている蒼弥は、美しいという言葉が似合う美丈夫である。優しさを醸し出す中性的な顔立ちを持ちながらも、和花の肩に置かれた手はごつごつと男らしい。婚約者として同じ屋根の下、一緒に住んではいるが、何度見てもその美貌に慣れることはない。

 そんな美しい顔がすぐ目の前にあり、和花は息を呑んだ。

 和花の反応がおかしかったのか、蒼弥は、口元を緩める。


「随分と集中されていましたね」


「は、はい……」


 周りが見えなくなるほど集中していた自分が恥ずかしい。何か不可思議な動きや発言をしていなかったか、今更ながら不安に襲われた。


(恥ずかしい……私変なことしていなかったかしら)


 蒼弥から目を離し、視線を彷徨わせあれこれ考えていた和花は、ふとあることに気がついた。

 女の、婚約者の仕事であるお茶汲みを蒼弥にさせてしまった、ということだ。

 基本台所の仕事は女のものだと、暗黙の決まりがある中でのこの失態。

 和花は穴があったら入りたい衝動に駆られた。


「ご,ごめんなさい!私、気が付かなくて……!蒼弥さんにお茶を淹れて頂くなんて……!」


 しどろもどろに謝る和花を見た蒼弥は、ふっと笑い声を漏らした。


「私が淹れたくて淹れたんです。そんなに謝らないで下さい」


「で、ですが……!」


「私だって茶くらい淹れられます。和花が美味しそうに飲むことを考えて、心を込めて淹れたのですから、温かいうちにどうぞ」


「すみません……っありがとうございます」


 優しい声色と笑みが和花の心を落ち着けていく。澄んだ空のように広く明るい蒼弥の心遣いに、和花はいつも助けられている。

 手元の本を閉じ、湯呑みを持ち上げる。手袋越しにじんわりと暖かさが伝わり、先程までの緊張が一気に緩和された気がした。


「……美味しいです」


 一口口に含むと、お茶独特の若干の渋さと爽やかな香りが口の中に広がった。


「ふふ、それは良かったです。やっと表情が柔らかくなりましたね」


「私、そんなに酷い顔でしたか?」


 鏡が手元にない今、自分の表情が分からない。しかし、固く重々しい顔をしていたのだろうと見当は付く。


「酷いというか、思い詰めたような顔をしていましたよ……ここに深い皺が寄っていました」


 蒼弥の香りが届くほど、ぐっと距離を詰められる。呆気に取られている和花を気にする様子もなく、蒼弥はやんわりと彼女の頬を包み込むと、そっと親指で眉間を撫でた。


「……っ!」


 その手つきは、まるですぐに壊れてしまいそうな物を触れるかのようにとても優しく、くすぐったさと羞恥に一気に襲われた。

 顔に熱が集まり、心臓が痛いほどにばくばくと強く動く。  


「……っあ、あの……」


 蒼弥から距離を取ろうと身を捩るも、眉間を撫でる彼の手は止まらなかった。


「そ、蒼弥さん……!」


 何とか声を出し、彷徨わせていた視線を合わせると、蒼弥の手がぴたりと止まり、そしてゆっくりと離れていった。


「すみません。あなたを見ているとどうしても触れたくなってしまいます」


「は、恥ずかしいのでやめてください……」


 今さら遅いが、赤くなった頬を隠すように俯くと、頭上からは「可愛らしくて困ってしまいますね」と蒼弥の低く穏やかな声が聞こえてきた。

 何度触れられても、何度微笑まれても慣れることなんてない。毎回初めてされたかのような初々しい反応をそろそろやめたいが、どうにもならなかった。


「……それで、何か参考になることは書いていましたか?」 


 蒼弥が視線を彩色書記に向ける。和花も縮こめていた身体を緩め、つられて本に目を向けながらゆっくりと首を左右に振った。


「本の端から端まで目を通してはいますが、これといった情報は……」


「そうですか……」


「せっかく皇太后様からお借りしたのに……ここに載っていなかったら……もう手がかりは……」


 和花は困ったように眉を下げて笑った。

 解決の糸口を探す手がかりを、この本の他は知らない。和花は頁を読み進める度に、頭のどこか片隅で『諦め』という言葉が浮かんでいた。

 先祖代々受け継がれてきたこの力を耐えさせてしまうのは、とても心苦しいし、もう絵が描けないことも辛い。しかし、いくら努力してもどうにもならないことだってあると自分自身に言い聞かせているところもあった。


「少し散歩に行きませんか?」


「え?」


 突然の蒼弥からの提案に、和花は目をぱちくりさせた。今の自分の話を聞いていたのかと問い掛けたくなるほど明るく涼しい顔で言う蒼弥を思わず凝視してしまう。


「和花の気持ちは痛いほどわかります。ですが、焦っても良いことは起きません。一度外の空気を吸って落ち着いてからまた、次の案を考えましょう。方法はまだあるはずです」


 言うのが早いか、蒼弥は早速さと立ち上がり、和花に手を伸ばした。「さ、今日は天気もいいですし、ね?」と言いながら和花の手を引いて立ち上がらせた。


「え?あ、は、はい……」


 未だ戸惑う和花の手をしっかり繋ぎ、二人は冬の外へ繰り出していった。

 

 

 

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