未来から来たひと
転げ落ちた後、アーヴェルはわたしを見て不気味に笑い出し、よく分からないことを言う。
でもその声色に、今まで誰も向けてくれなかった愛情が含まれているような気がして、気がつけばわたしも微笑み返していた。
アーヴェルは椅子に座り直し、表面上は取り繕っていたようだけど、角を挟んで隣に座るわたしには明らかな異変が見て取れた。
食事会が滞りなく進む中でも、ぶつぶつなにかを呟いていたし、ショウが親戚たちに雄弁を振るっている間も、聞いているのかいないのか、考え事をするように、眉間に皺を寄せて目を閉じていた。
盗み見ていたら、彼もこちらを見て、ばっちりと目が合ってしまった。その澄んだ瞳を見て、ふいに背筋が寒くなる。
――次男のアーヴェル・フェニクスも冷酷だという噂だ。下手を打つと、お前、殺されてしまうかもな。
お兄様の声が蘇って、怖くなった。彼の機嫌を損ねたら、わたしなんて簡単に殺されてしまうんだ。
アーヴェルがわたしの方に手を伸ばしてきたから、反射的に体が震える。ジェイドお兄様みたいにぶってくるかもしれない。
でも、身構えるわたしをよそに、アーヴェルは、自分が食べた空の皿を、わたしが手を付けていない皿と交換しただけだった。
「食ってやるよ、魚嫌いなんだろ」
どうして知っているんだろう。驚いていると、言葉が続いた。
「そんな目で見んなよ。デザートをやるから、文句はないだろ」
こんなに素敵な提案は、はじめてだった。甘いものは好き。ほんの少しの間でも、嫌なことを忘れられるから。
「ありがとう――」
言いかけて、ふと思った。
この人のことを、なんて呼べばいいんだろう。呼び捨てなんて、まさかできない。アーヴェルさん? 義弟さん?
「――お兄ちゃん」
散々迷ったあげくの果てにそう言うと、アーヴェルは、微かに笑った。その笑みはどこか懐かしげで、わたしは目が、離せなかった。
「なあセラフィナ」
再び呼びかけられる。食事会は、テーブルの片隅のわたしたちが何を話していようがおかまいなしに進んでいく。一応は、わたしも主役の一人だけれど、彼らの関心はショウと、未来のフェニクス家にあるだけみたいだった。
わたしが顔を向けるとアーヴェルの瞳がわずかに揺れたような気がしたけれど、隠すように、彼は目を閉じ、咳払いをひとつした。そうして再び開いた目には、さっき一瞬感じたような悲しみはもう浮かんでいなかった。
そうして、意味が分からないことを一気に言った。
「いいかセラフィナ。俺はついさっき、未来にいた。それで今、この場所にやってきた。ガキのお前にも分かりやすく言うと、過去に戻ってきたんだ。だから言ってやる。お前は将来悪女になる……かもしれない。この国で誰からも嫌われる存在になるんだ。
そうじゃない場合もある。そうじゃなければ、大好きな婚約者を失って、好きでもないろくでなしと結婚することになる。どっちに転んでもお前は満足できない」
わたしは、多分ぽかんと口を開けていたことだと思う。だって、訳が分からないんだもん。だけどアーヴェルは前のめりになって、更に続ける。
「いいか? よく聞け。お前はショウ・フェニクスが好きで好きでたまらなくなるんだ。だが、今から数年後にショウは死んじまう。殺されるんだ。クソ野郎に」
どうしよう。アーヴェル・フェニクスは、少し変な人なのかもしれない。妄想を本当のことみたいに語る病気があると、前にジェイドお兄様が得意げに言っていた。
「だけど大丈夫だ。そうはさせないために俺がいる。お前が俺を過去に戻したんだ。俺の言うことをよく聞いて、まっとうに生きてりゃ回避できる。お前は晴れて愛するショウと結婚できるんだ。良かったな、嬉しいな?」
アーヴェルは、言葉を切って言った。
「分かったか?」
分からずに、首を横に振ると、アーヴェルは唸った。
「――つまり、俺はお前の味方ってことだよ」
むしろそっちの方が分からなかった。この世界にわたしの味方がいるとは思えない。
黙ったままのわたしを見て、アーヴェルはため息をついて、片手を伸ばしてきた。
今度こそ叩かれる。きっとわたしが気に入らない答えをしてしまったんだ。
きつく目を閉じて、首をすくめた。だけどなにも起こらない。代わりに、遠慮がちな、だけど、優しい声がした。
「この家じゃ、誰もお前を傷つけないよ」
アーヴェル・フェニクスは冷酷だと、ジェイドお兄様は言っていた。
なのに――。
彼が上げた手は、わたしの頭をくしゃくしゃになでただけだった。
「フィナは――フィナは……」
何を言えばいいのか、分からなかった。
だけど心があたたかくなった。
安堵なのか、涙があふれて、止まらなくなった。
ショウがわたしに気がついて、ぎょっとしたような表情をした後で、慌てたようにハンカチを差し出してきた。だけどそれより早く、アーヴェルの服の袖に、涙が拭き取られる。
アーヴェルがわたしを泣かせたと思ったのか、ショウは彼を問い詰めている。アーヴェルは、すこしだけけだるそうに弁明をしていた。
味方だと、思っていいの?
こんなわたしに、優しくしてくれるの?
「泣くなよセラフィナ、大丈夫だからさ」
アーヴェルはそう言って、またわたしの頭をなでてくれた。不思議な気持ちに包まれた。
生まれてはじめて、こんなに優しい手を知って、生まれてはじめて、誰かを好きだと、思った。




