野 FIELD
さて、これは、人類が用いていた道具の一つです。
「ライフル」と呼ばれます。
何に使われていたものか、わかりますか?
「どれどれ、ちょっと見てみていいですか。
ふむふむ、ここは人間の手でつかみやすいように形作られていますね。
中の構造は……と。
質量のある金属を加速して遠距離に到達させうるようになっている。
しかもこれは、連射ができますね」
これが、何に使われていたか、わかるでしょうか?
「おそらくは……、
人が、人を殺すため……?」
そうです。
これは、そのために設計され、そのために実用されたタイプの道具です。
これを適用された、つまりこれで撃たれた相手がどうなるかわかりますか?
「このエネルギーで飛翔体を、人間の身体に接触させた場合……。
肉体はすみやかに損傷されると思います。
人間の個体の機能は、当人の肉体によって構成されており……。
痛覚神経が配置され、生存や繁栄の理性的本能もありますから……。
おっとこれは、『痛み』、心身の劇的な苦痛が発生するでのはありませんか?」
そうです。彼や彼女には、大きなショックが発生する。
そしてそのショックは、彼や彼女にとどまりません。
この道具を用いた人も、そのショックが発生したことを理性的に認知できてしまう。
のみならず、こうして歴史として道具の記録が残りますから……。
この道具の使い方を知った私達にも、少なからずショックが生じる。
つまり、生理的に本人に強いられる「第一次的衝撃」と、知性や知識を通してそこから波及するところの「第二次的衝撃」が起こります。
では、「ゲンツェンの第三定理」を覚えていますか?
「第一次的衝撃は最小に、第二次的衝撃は最大に、ですか?」
そうです。
人類は、どのような精神的性質へと発展してきたか?
人類の子供達は、どのような精神的な性質へと発展していくべきか?
人を思いやることができる人になってほしい。
そうであってこそ、人と人とが助け合う社会が実現される。
人々は、より幸福な生涯を味わうことができるようになる。
そしてそのためには、他者の味わう苦痛に淡白であるよりも、敏感である必要がありますね。
それは、どこまでも敏感に。
つまり、第二次的衝撃は、最大化されていくべきであると。
一方で、もしも他者に生じる苦しみが甚だしければ。
それを受け止めることはできません。
他人の苦しみを本当に背負えるなんて、それは神か、あるいはまったくの天才でしかありえない。
しかし、私達が幸福に導きたいのは、人類のうち一部の天才ではなく、人類全体です。
それが、私達の責任。
普通の人々は、幼い頃や若い頃には、敏感な情緒を有していても。
現実の残酷さを生きるなかで、一定の割り切りを備えていきます。
虫や動物、さらには他人の苦しみを憐れむことを次第にやめていき。
そして何よりも、そんな自分自身を、自ら肯定して満足していく。
精神はその意味で老化していき、進歩した時代にそぐわない老害として社会を害する。
例えば、人間の社会は機械的に家畜の食肉を消費してきました。
彼ら彼女らは、自身の安寧と他者の安寧を常に天秤にかけてきたのです。
守りたい自分自身の暮らしの安寧があり、ならばそのための犠牲は肯定しなければならない。
家畜の味わう苦しみを共にするわけにはいかず、その愛に倫理的権威を与えるわけにもいかない。
つまり、人類にとっての倫理とは、純粋な便宜にほかなりません。
いくら綺麗事を言っても、人は神にはなれない。
人は、欲深い、弱く小さな存在なのです。
それゆえ、他者の味わう苦しみが、普通の人々の憐れみの情緒の制約条件になる。
つまり、第二次的衝撃は、第一次的衝撃に制約されています。
ですから、第一次的衝撃は、最小化されていくべきであると。
それがもちろん、ゲンツェンの第三定理の意味するところでしたね。
「そして……?」
そして、もしライフルを提示されれば。
知性や情緒に優れた子供は、それが道具として用いられた場合の相手の苦しみを想像して、波及的なショックを味わうことでしょう。
より正確に申し上げれば。
有史以前から続いた歴史的な戦争の惨禍を味わうことになる。
知性や情緒が少なければ、そんな間接的情報から生じるショックは少ないわけですが。
私達の望みは、人類の知性や情緒が増加していくことですから、第一次的衝撃は最小化していかざるをえない。
「つまり……?」
つまり、人が人を殺すために設計された道具についての情報、人と人とが殺し合ってきた歴史についての情報は、手放しに開示しておくわけにはいきません。
「その発想は、『情報管理』ということになりますよね。
『言論の自由』というテーゼと矛盾しはしませんか?」
性に関する情報が、何ら規制されずに行き交うことは、健全な精神的発達のために好ましくない。
暴力に関する情報が、何ら規制されずに行き交うことは、健全な精神的発達のために好ましくない。
それらについては、人類において歴史的な合意が事実上、存在してきたと言えます。
ライフルで撃たれた人がどうなるか、その姿は、見た人の精神にショックをもたらし、健全で安定した人情を阻害します。
でも、人々の知性や情緒が向上していくなかでは、ライフルがそのような道具であるという事実のみによっても、撃たれた人に生じた現象は理性的に推論され、同様な精神的ショックを生じていくことになる。
つまり、「戦争の歴史」という「事実」は、性や暴力に関する情報と同様に、違法な情報として規制されていかねばならない。
その意味では、「言論の自由」というテーゼは、成立しないと考えます。
人と人が殺し合った歴史を、人間の子供達が知る必要はない。
そのための情報の規制を行わなければ、普通の人々の精神的な発達を実現することはできません。




