第48話 ヤヤコの独白
夜だった。
ダンジョンの外。
安いビジネスホテルの一室で、ヤヤコはベッドに腰掛けたまま、天井を睨んでいた。
右肩が、まだ熱を持っている。
応急処置は済ませたが、動かすたびに鈍い痛みが走る。
「……チッ」
小さく舌打ちする。
負けた。
それは、どう足掻いても事実だった。
殺されなかった。
それも、事実だ。
どちらも、腹の底に沈んで、消えない。
ヤヤコは、スマホを手に取った。
通知が溜まっている。
『大丈夫?』
『負けたってマジ?』
『あの女やばくね?』
『次は勝てよ』
指で、雑にスクロールする。
心配でも、煽りでもない。
ただの消費。
――いつものことだ。
でも、今日は、少し違った。
切り抜き動画。
タイトルが、目に入る。
『死神アリサ、ついにPvP解禁』
『殺さなかった理由が怖すぎる』
「……ふざけんな」
声に出してから、
自分が震えていることに気づく。
怖い?
誰が?
私が?
――違う。
ヤヤコは、歯を噛みしめた。
自分は、怖がっていたわけじゃない。
ずっと、分かっていただけだ。
線を越えたら、終わる。
一度壊れたら、戻れない。
だから、線を引いてきた。
死までは撮らない。
殺しはしない。
それが、大人だと思っていた。
でも。
あの女は、違った。
線の存在そのものを、最初から前提にしていなかった。
殺すか、殺さないか。
撮るか、撮らないか。
そんな二択じゃない場所に、
最初から立っていた。
「……ムカつく」
ヤヤコは、スマホを握りしめる。
戦闘の瞬間が、頭に蘇る。
倒れたまま、動かないフリ。
痺れていると、思い込ませる間。
そして、動いた。
あの一瞬の目。
勝ったとか、余裕とか、
そういうのじゃない。
ただ、
「今だ」
と判断しただけの目。
あれは、命を賭ける人間の目じゃない。
命を、素材として扱える人間の目だった。
「……死神、か」
切り抜きのコメントで見た言葉を、口の中で転がす。
悪口のはずなのに。
蔑称のはずなのに。
やけに、しっくりきてしまう。
ヤヤコは、悔しかった。
負けたからではない。
撃たれたからでもない。
自分が、「同じ場所に立っていない」ことを、突きつけられたからだ。
あの女は、もっと深いところにいる。
倫理でも、炎上でも、数字でもない。
「最後まで行く覚悟」
それを、最初から持っている。
私は、持っていない。
だから、線を引いた。
だから、生き延びてきた。
それは、間違いじゃない。
……でも。
勝てない。
この先、何度やっても、あの女には勝てない。
ヤヤコは、右肩にそっと触れた。
包帯の下。
まだ、痛みが残っている。
でも、その痛みが――
なぜか、少しだけ、現実味を持って感じられた。
「……覚えてるよ」
小さく、呟く。
あの距離。
あの目線。
あの一言。
――殺しません。
それは、情けではない。
慈悲でもない。
ただの、選別だ。
ここまでの人間だ、と。
「……最悪だな」
ヤヤコは、苦笑した。
負けた。
格付けされた。
それでも――
目を逸らせない。
次、彼女が潜る時。
次、彼女が死ぬ時。
きっと、自分は――見てしまう。
あの女は、私より「先」に行っている。
その事実だけが、今も、胸の奥で静かに燃えていた。
しばらく天井を見つめたまま、ヤヤコは動かなかった。
考えていた。
自分が、何をしたいのか。
何を、許せないのか。
――殺したいのか?
その問いに、即答はできなかった。
正直に言えば、あの女が死ぬところを、見たい。
でも。
それは、勝ちたいとは違う。
上に立ちたいとも、違う。
ただ――
「終わり」を確認したいだけだ。
「……私じゃ、無理だな」
小さく、呟く。
もう一度やっても勝てない。
それは、はっきり分かっている。
力の問題じゃない。
覚悟の深さだ。
あの女は、自分の命も、他人の命も、同じ棚に並べてしまえる。
私は、そこまで行けない。
だったら。
――行ける奴に、任せるしかない。
ヤヤコは、スマホを持ち上げた。
連絡先は、かなり下の方にある。
表の名前は、ただの「探索者」。
配信もしていない。
目立つ戦績もない。
でも。
一度だけ、現場で見たことがある。
救命部隊が撤退する直前、妙に静かな動きで、「処理されていない危険」を片付けていた男。
トーク画面を開く。
しばらく、入力欄を見つめる。
感情的な言葉は、全部消した。
脅しも、恨みも、不要だ。
必要なのは、条件だけ。
ヤヤコは、短く打ち込んだ。
『仕事、頼める?』
既読がつくまで、数秒。
すぐに、返事が来た。
『内容による』
ヤヤコは、深く息を吐いた。
そして、次の文を送る。
『深層配信者の女』
『アリサって名前』
『次に潜る日も、だいたい分かる』
少し間が空く。
心臓が、妙にうるさい。
返事。
『殺し?』
その一言を見て、ヤヤコは、親指を止めた。
――本当に、それでいいのか。
一瞬だけ、迷う。
あの目。
あの距離。
あの「殺しません」という声。
胸の奥が、きしむ。
でも。
ヤヤコは、打った。
『任せる』
『止めてくれるなら、それでいい』
すぐに、返事が来た。
『了解』
『条件は追って』
それだけ。
通話も、説明もない。
仕事として、完結している。
ヤヤコは、スマホを置いた。
罪悪感は、ない。
正義感も、ない。
あるのは、ただ一つ。
「……私じゃ、届かない」
それを、認めたという事実だけだった。
右肩の傷が、ずきりと痛む。
ヤヤコは、その場所に、もう一度触れた。
なぜか、この痛みだけは、手放したくないと思った。




