*02 捨て鉢=腐れ縁2
こんなことはしたくない。好きだった庵に対して、頭の中が混乱する。流されるだけの自分にはなりたくないと、必死に耐えるしかなかった。
だが、その庵の行為は続かなかった。数秒の間に、突然低音の声が透き通るように耳に響いた。
「おい、そこの男!さっきから会話を聞いてたけど、無理矢理キスってのは違うだろ?」
私たちはその声に反応して唇を離し、声の方に振り向いた。
あまりにも唐突で、綺麗な低い声だった。思わず見惚れてしまうような声の主は、少し離れた場所に佇んでいた。スラリとした体型で、短い黒髪が特徴的だ。何とも魅力的なオーラを放つ彼は、目を引く美貌の持ち主だった。
彼は少し気だるそうな表情で、私たちを「なんだこいつら」とでも言いたげに見下ろし、人差し指で庵を指さした。
きっと、屋上なんか滅多に来ない場所で邪魔されたことに怒っているのだろう、と私は思った。彼が私の方に体を向け、質問を投げかける。
「さっきのキス、無理してた?」
唐突な質問に戸惑い、思わず声を上げる。遠くから響いていた低音が、近づいてくる。見知らぬ彼に身構え、覗き込むように見る。
「え、なんで?そんなことを」
「そりゃ、喚いていたから。何事かと思うじゃん」
「あ……えっと、すみません」
嫌だったことに気付いていたんだ。彼の堂々とした態度に、心を奪われそうになる。そして、強引な庵を止めに入ってくれたということは、私に協力してくれるのだろうか?と、無駄な妄想が膨らむ。
会話の合間に、彼の爽やかな笑顔がどこかくすぐったい。意地悪な庵とは違い、まるで「爽やか系の王子」という言葉が似合う。カッコいい……けど、どこかで見たことがある気がする。なんだろう?と頭を巡らせる。
しかし、我に返り、再度彼を見る羽目になる。
「それか、俺に対する嫌がらせ?痴話喧嘩?」
嫌味な笑みを浮かべる彼に、ひと呼吸置いて口を開く。
「は?そんなわけないじゃん。そんなつもりない」
「ふーん、じゃあ喚いていたのは?」
「え?あれは、えっと、あれは――――」
頭に血が上って叫んでいたけど、喚いていた言葉は本心でもある。噂が絶えない組のメンバー【捨て鉢組】の彼らであっても、関係ない。あれだけ我慢しても気付かない鈍い庵が悪い。
もしかして、このこと、彼にはうんざりだったのだろうか?
「あれは、本心で言ったの。別れたいし、我慢してまで待つのはしんどいから。嫌いだって言いたくて」
思ったことを口にすると、庵が鋭い目線で見ていることに気付き、横目で視線を追う。信じられない、と凝視する庵は無視しておこう。
さらっと返したけれど、彼から何も言われないように心で願い、様子を見る方が得策だ。目の前には私の味方が一人、庵には現時点で味方する者はいない。
でも……「やっぱり耐えられない」と、庵は肩を震わせて諦める様子もない。気にしているのだろうか、明らかに黙っていても焦っているようで、憤慨寸前だ。
後で構って欲しいとか、キスをするつもりとか。そんな目論見だろう。
――そんなことするから私は嫌になったのに。
数分経ったところで、庵は眉を深く顰め、少量の汗を右手首で拭いつつ、私に尋ねる。
「なっ、お前……何言ってんだよ?そんなことねえよな?」
「何って……アンタと私のことだけど?もう、許さないし、何度だって言うよ。別に隠すことない」
冷静に言い放ったはずなのに、庵の表情を見た瞬間、胸がチクリと痛んだ。唇を噛みしめた彼の顔には、いつもの余裕も、ふてぶてしさもなく、ただただ信じられないと言わんばかりに動揺が滲んでいた。
……でも、もう戻るつもりはない。
庵が引き笑いを漏らしながら、髪をぐしゃりとかき乱す。
「ハッ……そうかよ……」
乾いた笑い声。その響きに、かつての関係が本当に終わったのだと改めて実感した。
一部始終を傍観していた見知らぬ彼が、ふっと声を出して口元を緩ませる。その声が、氷のように張り詰めた空気の中で妙に際立った。
「いい度胸……じゃ、ね? いや正確には微妙だけど、上出来な言い方だから、多分そいつ、諦めるだろ」
「……な!? え?」
思わず、私は唾を飲み込む。見知らぬ彼は、冷たいほど無表情で庵を見下ろしていた。その横顔に、驚くほどの美しさを感じる。
音も聞こえない。何も聞こえない。何が起きたのか、理解するより先に、彼の口元がゆっくりと上がる。
「お前は度胸あるな」とでも言いたげなその表情。
しかし、庵の方を見ると、明らかに顔色が変わっていた。今まで見せたことのないような強張った表情。何かに怯えているような、そんな雰囲気を醸し出している。
――捨て鉢組の庵が、見知らぬ彼に驚いている?
そんなこと、今まで一度も見たことがなかった。庵がこんなにも憔悴している様子を、私は初めて見た。
何が……起きているの?
不安が胸を締めつける。そのとき、見知らぬ彼が私の右腕を優しく掴み、耳元で囁いた。
「まぁ、お疲れさま。よくがんばったよ、妃奈」
春風が吹き抜け、陽射しの中で微笑む彼。その笑顔に、不思議と目の前の景色が霞む。
触感に驚くのも無理はない。だって、私の肩端が見知らぬ彼の胸板に触れているのだから。正確には、怪訝な顔をする庵を見下ろしながら、私の右肩を掴んで引き寄せられている。
男に触れる機会なんてほぼない私にお構いなく、簡単に手を回してみせる彼の仕草に、思わずドキッと心が跳ねた。
庵の豹変する様子を尻目に、堂々と見せつけるように微笑む彼。その無邪気な表情が、どこか満更でもなさそうに見えた。
思い返せば、彼は驚きもせず、私が嫌がっていたことも理解していたはずなのに、それをあえて庵に見せつけるような態度を取っている。何かを知っているのか?
それに、庵もおかしい。いつもならこんな状況でも怒鳴り散らしていただろうに、今はただ無言で睨みつけるだけ。何か、見知らぬ彼の存在が、庵にとって「脅威」になっているような気がしてならなかった。
「彼女に構ってたって無理だよ、庵。当分、そのたらしの態度、どーにかしねぇとくたばるぞ。連れてバカでもなったら分かるんじゃねえの?」
「……お前、っま、で ふざけてんのか」
「ふざけてみえるの?注意しただけの言葉が」
庵の唇が、悔しそうに噛み締められる。
「あと、庵。コイツは俺のものだから」
「――――は?」
胸の高鳴りを抑えようと聞き耳を立てるが、その言葉に思考が一瞬止まった。
え……? まってまって。
私、そんな言葉受けた覚えないんだけど!?
庵は死んだ瞳のように痛々しい視線を私たちに向けていた。一方、見知らぬ彼は堂々とした態度のまま、唐突な言葉を紡ぎ、余裕の笑みを浮かべている。
というか、この人、庵と同じ種類の人間じゃんか!!
(発言で庵が怒ることは予想できるけど、なんか怖い!)
案の定、庵の目線は見知らぬ彼へと向かう。その視線はまるで雷を落とす勢いで、殺気すら孕んでいる。
「ふ、ふざけんじゃねえよ。どういうことだ? 俺はこんな話、聞いてねえぞ! 妃奈を対・象・ってのは!」
「どういうことって、その・ま・ま・の・意味だけど?」
庵の震えた拳が、徐々に硬く握り締められていく。怒りが頂点に達しようとしているのが分かった。
(どうしよ…!これじゃヤバイ事になりそう!)
庵の顔が赤くなり、いつもの冷静さは完全に失われていた。
見知らぬ彼は庵を挑発するように、じっと目を見据えたまま静かに呟く。
「庵って、怒りが頂点になったら、ヤクザより怖いんだって? 捨て鉢の噂、本当なの?」
「……っ うるさい」
庵の声はかすれていた。まるで、触れられたくない何かを突かれたような反応。
「ちょっと待って、なんで勝手に話進めてんのよ!?」
私はとうとう声を上げた。
「ふざけんの、どっちよ!? こっちは意味わかんないんですけど! 私を放置すんな!!」
屋上に響く私の叫びが、空気を震わせた。
続きます。




