*08 逃れたい言い訳
一一年の廊下―
信じられない。本当に最低。
よりによって、あんなことを私にするなんて――。
私はあの出来事を消し去りたくて、唇を手で何度も拭いながら、急いで教室へ向かう。足が自然と速くなる。
なのに――彼は、後ろをついてくる。
「おいっ!なんで逃げたりすんだよ!?」
焦ったような彼の声が背後から響く。
だけど、私は答えない。ただ前を向いて歩き続ける。
「……教えない」
「なんで!?俺が助けたんだから、それぐらいしてくれてもいいだろ?」
彼は執拗に問いかけるけど、私は無言のまま、彼を無視して足を速めた。
だけど、その光景を見ていた周りの生徒たちがざわめき始める。
「なんであの子が櫂琉くんと……?」
「意味わかんないけど……」
「だいたい、あの子が悪いじゃない」
「そうだねー。マジむかつく」
女子たちのヒソヒソ話が耳に入る。
でも、私はそれどころじゃなかった。
だって――
私の頭の中には、彼がした行為がぐるぐると回っていて、それが消えてくれない。
彼氏でもないのに、強引に唇を奪って。
しかも、その後の満面の笑み。
「俺は気持ちよかったけど、お前は?」
そんな風に言わんばかりの余裕の顔。
……まるで、私が喜ぶと思っているみたいに。
そんなわけ、ないでしょうが!
私は絶対に騙されない。
もう、庵みたいな行動を取る人なんて――うんざりなんだから。
だから急いで教室へ戻ろうとする。
この場から、一刻も早く離れたかった。
でも、その瞬間――
「おい……おいっ!」
低い声が、すぐ背後から響く。
気づけば、彼が私の肩に手を置いていた。
その瞬間、私の身体はピタリと止まる。
「……っ!」
驚く私の身体を、彼は強引に振り向かせる。
顔を真正面から固定され、私の視線は彼のものに捕らえられた。
――黒髪が少し癖のある、どこか乱れた無造作な髪。
キリっとした整った顔立ち、鋭い目元。
身長も高く、どこか挑発的な笑みを浮かべながら、まるで余裕たっぷりの態度。
それなのに、なぜか洗練された雰囲気を纏っている――。
「どうして、そんなに焦るような顔してるんだ?」
彼は眉をひそめ、まるで私を心配しているような口ぶりで言った。
まるで「そんなに怯えなくてもいい」と言いたげな、落ち着いた声。
……そんなこと言われたって。
キスのことが、頭から離れないのは事実で。
この状況も含めて、私はもうどうしたらいいのか分からない。
焦る気持ちを誤魔化そうとするけれど、心がざわついて止まらない。
そんな私の動揺に気づいているのか、彼はじっとこちらを見ていた。
「……そんなことないよ? あんたの勘違いよ」
私は彼を睨みつけながら、必死に否定する。
「ふーん?」
彼は私の言葉を流すように微笑んだ。
それが、何よりも腹立たしくて――
「……っ!」
とにかく、この場を離れたいのに、彼の視線が絡みついて離れない。
その時――
「妃奈、お前……俺に惚れてる?」
「……なっ!?」
彼の不意な一言に、私の心臓が跳ねる。
「そういうこと?」
彼は意地悪な笑みを浮かべながら、私の反応を楽しむように見ていた。
「な、なんでよ!? 私はそんなこと、一言も言ってないでしょ!?」
思わず声を上げる。
だけど彼は、ますます楽しそうに笑った。
「でも俺のこと見てるから、そうなんだって思った」
ニヤリと笑う彼。
まるで私が意識していることを確信しているみたいに。
「……それは、あんたが余計なことばかりするからでしょうが!」
私は必死に言い返した。
「へぇ、そう?」
彼は微笑みながら、さらに一歩近づいてくる。
その距離が縮まるたびに、私は後ろに下がろうとする。
でも――
逃げ場がない。
いつの間にか、私たちのやり取りを見ていた生徒たちが、周囲を囲むようにこちらを見ていた。
彼のことをよく思っている女子たちは、鋭い視線をこちらに向けていて。
私は、その視線が苦しくて――怖くて。
「大体、なんで逃げる必要があるんだよ?」
彼の声が耳元で響く。
「俺のこと嫌いだからって? それとも……意識しちゃってる?」
「っ……!」
もう、やめて――!
私は彼を睨みながらも、動くことができなかった。
心臓がうるさくて、息が詰まりそうで。
何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
そんな私を見下ろしながら、彼は口の端を持ち上げていた。
まるで、追い詰めた獲物を楽しむかのように。
でも――
――キーンコーンカーンコーン
HRの終わりを告げるチャイムが鳴る。
廊下に響くチャイムの音。
その瞬間、彼は動きを止めた。
「……チッ」
彼は突然、舌打ちをすると、つまらなそうに視線を逸らした。
「ほんじゃ、まだな……がんばれよ」
そう言い残し、私の横をすり抜けて行く。
私はその姿を呆然と見送ることしかできなかった。
「……え?」
何が――どうして?
さっきまであんなに距離を詰めてきたのに、急に去るなんて。
彼の表情を思い出す。
まるで、期待を裏切られたかのような、残念そうな顔。
まるで――本当に、私が逃げることを寂しがっているような。
でも、それって――
「……っ」
分からない。
ただ、一つだけ分かるのは。
彼の名前を、周りが口にし始めたこと。
それが、何よりも怖かった。
彼がどんな人物なのか、これから知られていくことが――
それが、怖くて仕方なかった。




