第五十八話
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アスターは夫を椅子に座らせると、豆を挽きながら溜め息を吐き出した。
「どうしたの、珍しい悪手ね」
「…………分かっています」
声に覇気がないのは、気のせいではないだろう。目が覚めるカフェインの香りが、鼻腔から肺へ抜けていく。
アスター個人は、どちらの心情にも理解がある。短期間でも心を寄せた男が、別の女を重ねていたと知ったライネリカの怒りは最もだろうし、リュグザが助けられなかった養母と、瓜二つのライネリカを、過度に保護しようとしてしまう事にも納得できる。
ライネリカがジャダルを唆そうとする作戦自体は、確かに反対だ。だが自発的に行動しようとするライネリカを、頭ごなしに否定し、何もするなとは言えなかった。
彼女はアスターに言ったのだ。
── わたくし、死を待てば愛される子供であることを、やめましたの。
フィーガスに自らの立場を突きつけられた瞬間から、この数ヶ月。彼女が傷つき、諦め、それでも前に進もうとする意志を、アスターは強く感じている。
ライネリカはそもそも、貴族教育を受けている身としては、感情の起伏がはっきりしていた。
相手に感情が悟られぬよう教える貴族社会で、ライネリカの天真爛漫さは、はっきり言えば浮いている。それは別に彼女のせいではなく、王家がそのように学習を展開していたからなのだ。
淑女としての所作や教養は等しく覚えさせ、相手の顔色を窺い、腹の内側を探るような、貴族社会の仄暗さからは極力遠ざける。たえず囲って醜悪から遠ざけ、好きなものを好きなように生きられるよう、王家が、周囲が、配慮することを是としたのだ。
それはアスターも例外ではない。
甘やかすことに理由などない。根拠もなく漠然と信じていた。だがエイロス国を暫く離れてから、冷静になってようやく、自分達がライネリカに与えていた幸福が、どうしようもない劣悪だったと気付かされた。
王家が末姫に、心を育む環境を与えたのは、ライネリカが次代の国母になることを放棄しないため。
一番嫌な部分から遠ざけ、彼女が死を恐れないよう画策した結果だった。
それが今、彼女は王族としての立場を自覚し、変わろうとしている。
先ほどの振る舞いだって、今まであれば怒鳴っていたはずだ。だが彼女は努めて冷静に、リュグザの歪な感情を正そうとした。
「……リュグザさまと同じように、主さまのことは、あたしだって大事だわ」
アスターは鉱物を原動力とした加工品から、抽出したコーヒーが流れ落ちる様子を見つめる。小さなカップに注ぎ、リュグザの前に持っていけば、彼は片手で顔を覆い沈黙を返した。
小さなテーブルを挟み椅子を引いて腰を下ろし、湯気のたつコーヒーカップに口をつける。口内を潤すには苦いそれは、食道を通り体内へ流れ落ちた。
「でも、ただ守られるだけのお姫さまで、いられなくなってしまった。あの方はちゃんと理解してる」
「……我々が護るというのに」
「そうね。だけど、確かに主さまの主張も一理あるわ。ジャダルの失脚を狙うのに、あたし達に決定打がないのは本当でしょ?」
「だからといって、我が君が矢面に立つ必要性を感じません。何故わざわざ、あの男に晒すような真似を、俺が赦さねばならないのでしょう。……この場には俺がいるのに、何故……」
声に苛立ちが混ざっている。主君に対する以上に、自分自身に向けて。
アスターはカップを避けておもむろに立ち上がり、リュグザの方へ回りつつ、行儀悪くテーブルに腰を下ろした。ドレスをたくし上げ素足をリュグザに擦り付け、軽く片足で夫の座る椅子を蹴る。
視線が上向いた。薄紅の瞳を細めて、真っ向から睨み返す。
「傲慢な人。ライネリカ第二王女殿下は、リュグザさまの女じゃないわ。あたしが唯一、触れることを許してあげた、フィーガスさまの婚約者よ」
リュグザの金色の目が、微かに左右に揺れた。
「いつも冷静になれって、あたしを嗜めるのは貴方じゃない。主さまの行動理由は褒められた事ではないけれど、でも、間違っている訳ではないと思うわ」
「自分を邪な目で見ると分かっている男を、挑発する行為が間違いでないと?」
「婚約者と親密に振る舞うことは、間違いなの?」
「状況が状況でしょう。あの男に対し、ライネリカ第二王女殿下に関する何もかも、悪手になる可能性もある。愚弟も愚弟だ、彼女がいかに人目を引くか、分からない訳でもないだろうに。祝賀会中、必ずしも我々がお側にいられる訳じゃない。何かあればどう責任を取るというのです」
片手で髪を掻き乱し吐き捨てるリュグザに、アスターは目を丸くした。
彼が自分と違う方面の過保護なのは分かっているが、これは対象年齢が違う。どちらかと言えば、思考回路はキリノスに近い。
リュグザにとって、年若い婚約者二人は子供なのだ。
大人が守ってやらねば、囲い込んでやらねば、自分の身も守れない子供同然。ライネリカがシガリアと同じ顔であることも相まって、自分の目が届かない場所に行く事が不安なのだ。
アスターは上体を屈めて両手でリュグザの顔を包み、額に口付けて目を細める。
「お兄ちゃんね、リュグザさま」
「……揶揄っているのですか?」
「そうよ、揶揄ってるの。弟も義妹も、可愛くて可愛くて、仕方がないんでしょ?」
じっと瞳を覗き込めば、彼は少し口を閉ざした後、ゆっくりと一つ瞬いた。そしてアスターをテーブルから引きずり下ろすと、膝に乗せて腰元を抱きかかえる。
「……大切で、愛おしくて、仕方がない。……当然でしょう。俺の命そのものですよ」




