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第五十八話





 ◆ ◆ ◆


 アスターは夫を椅子に座らせると、豆を挽きながら溜め息を吐き出した。


「どうしたの、珍しい悪手ね」

「…………分かっています」


 声に覇気がないのは、気のせいではないだろう。目が覚めるカフェインの香りが、鼻腔から肺へ抜けていく。

 アスター個人は、どちらの心情にも理解がある。短期間でも心を寄せた男が、別の女を重ねていたと知ったライネリカの怒りは最もだろうし、リュグザが助けられなかった養母と、瓜二つのライネリカを、過度に保護しようとしてしまう事にも納得できる。

 ライネリカがジャダルを(そそのか)そうとする作戦自体は、確かに反対だ。だが自発的に行動しようとするライネリカを、頭ごなしに否定し、何もするなとは言えなかった。

 彼女はアスターに言ったのだ。


 ── わたくし、死を待てば愛される子供であることを、やめましたの。


 フィーガスに自らの立場を突きつけられた瞬間から、この数ヶ月。彼女が傷つき、諦め、それでも前に進もうとする意志を、アスターは強く感じている。

 ライネリカはそもそも、貴族教育を受けている身としては、感情の起伏がはっきりしていた。

 相手に感情が悟られぬよう教える貴族社会で、ライネリカの天真爛漫さは、はっきり言えば浮いている。それは別に彼女のせいではなく、王家がそのように学習を展開していたからなのだ。

 淑女としての所作や教養は等しく覚えさせ、相手の顔色を窺い、腹の内側を探るような、貴族社会の仄暗さからは極力遠ざける。たえず囲って醜悪から遠ざけ、好きなものを好きなように生きられるよう、王家が、周囲が、配慮することを是としたのだ。

 それはアスターも例外ではない。

 甘やかすことに理由などない。根拠もなく漠然と信じていた。だがエイロス国を暫く離れてから、冷静になってようやく、自分達がライネリカに与えていた幸福が、どうしようもない()()だったと気付かされた。

 王家が末姫に、心を育む環境を与えたのは、ライネリカが次代の国母になることを放棄しないため。

 一番嫌な部分から遠ざけ、彼女が死を恐れないよう画策した結果だった。

 それが今、彼女は王族としての立場を自覚し、変わろうとしている。

 先ほどの振る舞いだって、今まであれば怒鳴っていたはずだ。だが彼女は努めて冷静に、リュグザの歪な感情を正そうとした。


「……リュグザさまと同じように、主さまのことは、あたしだって大事だわ」


 アスターは鉱物を原動力とした加工品から、抽出したコーヒーが流れ落ちる様子を見つめる。小さなカップに注ぎ、リュグザの前に持っていけば、彼は片手で顔を覆い沈黙を返した。

 小さなテーブルを挟み椅子を引いて腰を下ろし、湯気のたつコーヒーカップに口をつける。口内を潤すには苦いそれは、食道を通り体内へ流れ落ちた。


「でも、ただ守られるだけのお姫さまで、いられなくなってしまった。あの方はちゃんと理解してる」

「……我々が護るというのに」

「そうね。だけど、確かに主さまの主張も一理あるわ。ジャダルの失脚を狙うのに、あたし達に決定打がないのは本当でしょ?」

「だからといって、我が君が矢面に立つ必要性を感じません。何故わざわざ、あの男に晒すような真似を、俺が赦さねばならないのでしょう。……この場には俺がいるのに、何故……」


 声に苛立ちが混ざっている。主君に対する以上に、自分自身に向けて。

 アスターはカップを避けておもむろに立ち上がり、リュグザの方へ回りつつ、行儀悪くテーブルに腰を下ろした。ドレスをたくし上げ素足をリュグザに擦り付け、軽く片足で夫の座る椅子を蹴る。

 視線が上向いた。薄紅の瞳を細めて、真っ向から睨み返す。


「傲慢な人。ライネリカ第二王女殿下は、リュグザさまの女じゃないわ。あたしが唯一、触れることを許してあげた、フィーガスさまの婚約者よ」


 リュグザの金色の目が、微かに左右に揺れた。


「いつも冷静になれって、あたしを嗜めるのは貴方じゃない。主さまの行動理由は褒められた事ではないけれど、でも、間違っている訳ではないと思うわ」

「自分を邪な目で見ると分かっている男を、挑発する行為が間違いでないと?」

「婚約者と親密に振る舞うことは、間違いなの?」

「状況が状況でしょう。あの男に対し、ライネリカ第二王女殿下に関する何もかも、悪手になる可能性もある。愚弟も愚弟だ、彼女がいかに人目を引くか、分からない訳でもないだろうに。祝賀会中、必ずしも我々がお側にいられる訳じゃない。何かあればどう責任を取るというのです」


 片手で髪を掻き乱し吐き捨てるリュグザに、アスターは目を丸くした。

 彼が自分と違う方面の過保護なのは分かっているが、これは対象年齢が違う。どちらかと言えば、思考回路はキリノスに近い。

 リュグザにとって、年若い婚約者二人は子供なのだ。

 大人が守ってやらねば、囲い込んでやらねば、自分の身も守れない子供同然。ライネリカがシガリアと同じ顔であることも相まって、自分の目が届かない場所に行く事が不安なのだ。

 アスターは上体を屈めて両手でリュグザの顔を包み、額に口付けて目を細める。


「お兄ちゃんね、リュグザさま」

「……揶揄っているのですか?」

「そうよ、揶揄ってるの。弟も義妹(いもうと)も、可愛くて可愛くて、仕方がないんでしょ?」


 じっと瞳を覗き込めば、彼は少し口を閉ざした後、ゆっくりと一つ瞬いた。そしてアスターをテーブルから引きずり下ろすと、膝に乗せて腰元を抱きかかえる。


「……大切で、愛おしくて、仕方がない。……当然でしょう。俺の命そのものですよ」



 

 

 

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