第五十話
ライネリカはその出自や、育ってきた環境のせいで、やや自己評価が低い自覚はあった。また、王族である割に社交界での経験も少ないことが、今回の作戦のネックにもなっている。
エイロス国は小国ながらも豊かな国であるが、商談による来賓が多く、あまり大々的な舞踏会や、晩餐会というのを開催しないのだ。ライネリカはそれが普通だと思っていたが、第一王子の話によると、シスボイリーへの属国が決まってから顕著になったのだという。
一国があまり華やかな社交場を設けると、大国の威厳に関わるという理由らしい。
小国にそんなつもりがなくとも、目立った行動は慎むことが、属国同士の暗黙の了解なのだそうだ。特に属国の中には、大国への上納金や、移動にかかる交通手段等が祟り、資金難で社交界どころではない国もある。余計な火花を散らさないため、開催を控えるのが常なのであった。
「君に不慣れな社交場で、背伸びしてジャダルに近づけとは絶対に言わない。むしろ、手篭めにされて汚されかねない。そんな事になったら僕は嫌だし、君の姉君には絞められるし、アスタロイズとリュグザに殺されるし、良い事が一つもない」
「…………みなさま、過保護なんですわ」
「そうだな。でも、君がそういう犠牲になる必要はないんだ、ということは分かったか?」
神妙に頷くと、彼は片手の平を上にしつつ、そっと差し出した。その手に自身の手を重ねれば、優しく握り込まれて目を瞬かせる。
「いいか、レディ・ライネリカ。自分の気高さを貶めるな。君は僕の婚約者で、十分に高嶺の花だ。今、向かっている祝賀会の会期中、最も注目されるべき女と言っていい。僕の隣で自信に満ち溢れ、堂々としているだけでいい。それが必ず、ジャダルの目に留まる」
血色の薄い唇が、手の甲に触れた。真っ直ぐにライネリカを見つめる瞳に、以前あった蔑みや、憐れみ、愛玩動物に対するような情は感じない。
彼はただ、ライネリカを見ていた。
フィーガスの誠意と未来への展望に、ライネリカは向き合う義務がある。
それが彼女には途方もなく、──嬉しかった。
「……分かりましたわ。閣下との勝利のために、わたくしもお力になりましてよ」
ふふ、と柔らかく笑えば、フィーガスは少し目を見張る。そして相貌を崩し、再度手の甲に口付けてから、ゆっくりと片手を離した。
「それではまず、形から入ろう」
「形、とは?」
「仲の良さを表す、一番手取り早い方法は呼び方だ。……僕もネリカと呼んでもいいか?」
「まぁ」
なるほど、と頷いて、快く了承しかけて思い留まる。
数拍ほど思案した後、おずおずと口を開いた。
「……では、ここぞと言うときだけ、エイリスとお呼びくださいまし」
「エイリス?」
言葉にされると僅かに気恥ずかしさが先行し、ライネリカは肩をすくめて苦笑する。
「わたくしの、……お父さまとお母さまが、ひっそりと授けて下さった名前ですわ」
“エイリス”は、ライネリカにとって特別な名前だ。
親子として振る舞えなくても、想い合う心は繋がっている。リンドウとバラが授けた、愛ある下に生まれた娘を示す、彼女の名前である。
子供の出来ない夫婦が若い頃、もし二人の間に子供ができたらという夢物語を語り合い、考え抜いた名前だと聞いている。もちろん、一度も呼ばれたことはない。そしてこの先、呼ばれる場面が訪れる事はないだろう。
だからこそライネリカは、自らの名前として大切に慈しんできた“エイリス”を、フィーガスとの親密さを表す指標にしようと思ったのだ。
フィーガスの表情が僅かに曇る。寂しさを共有してくれているのだろうか。ライネリカが見つめ返すと、彼はゆっくりと頷いて、座席についていた彼女の片手に、自らの手を重ねた。
「……分かった。では、僕のことはフィーと」
「フィーさま?」
「さま、も、いらないんじゃないか?」
「えっ、いや、それは……申し訳ございません、それは流石に段階を飛ばし過ぎですわ」
「飛ばしてないし、むしろ先に三段飛ばしで駆け上がったのは君だと思うが」
仰け反って抗議するも、今度はフィーガスが苦笑して首を傾ける。柔和に細められた双眸は、黒目がちで明らかに人体と違うのに、見惚れてしまうような美しい光彩を宿していた。
宝石にも似た美しい瞳に、ライネリカは少し惚けた後。三分近く時間をかけて思案し、逸らされない顔に観念して目線を伏せた。
「……ふ……、……ふい……、……フィー…………さま。……ダメですわ! わたくし、流石に不敬が加速してしまいますもの、ご容赦くださいませッ」
羞恥よりも恐れ慄いて両手で顔を覆う。本人が許可しているとはいえ、やはり気が気ではない。
赤い顔から一変し青くなったライネリカに、フィーガスもそれ以上の問答は避けて、馬車の座席にも垂れかかった。
「では、もう一つ。これは今じゃなくていいんだが……、いずれ僕の前では、気負わない話し方をしてくれるといい」
「気負わない……ですか?」
「ああ、君のその話し方は、姉君を真似しているんじゃないか?」
指摘に押し黙ってしまうと、彼の片手が優しく頬に触れる。沈黙は雄弁だ。ライネリカは眉を下げて視線を返し、少し冷えた、筋張った指先に肌を押し当てる。
フィーガスの言う通り、ライネリカの話し方はラジレイシアを模している。
そうすることで、強く壮麗な姉姫の鎧を纏えるような、自身も強さを得られたような、そんな感覚になるからだ。




