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第九話 潮騒の帰り道

防波堤の向こうで、波がゆっくりと砕けていた。

空はすっかり群青に沈み、海と空の境目が曖昧になっている。

僕たちは三人で、海沿いのコンクリートをゆっくり歩いていた。

お母さんは僕たちの少し前を歩いている。

潮風に髪を揺らしながら、ときどき振り返っては穏やかに笑った。

「この時間の海、好きなのよ」

そう言って海のほうを見る。

「昼間もいいけど、夜になる手前がいちばん落ち着くの」

確かにそうかもしれない、と思った。

明るすぎず、暗すぎず。

何かが終わるわけでも、始まるわけでもない。

ただ静かに、景色が色を変えていく時間。

この町そのものが、少しだけ呼吸をゆるめているみたいだった。


彼女は隣で黙って海を見ている。

時折、風で明るい髪が揺れる。

その横顔は、昼間より少しやわらかく見えた。

しばらく、誰も何も言わなかった。

それでも気まずさはない。

波の音が、言葉の代わりみたいにそこにあった。

しばらく歩くと、お母さんが立ち止まる。

防波堤の先端近く。

そこから見える海は、家の窓から見るよりずっと広かった。

「この辺りで、あの子よくぼーっとしてるの」

「お母さん」

少しだけ困ったような声。

お母さんは楽しそうに笑う。

「だって本当でしょ」

彼女は何も言い返さない。

ただ少しだけ視線を逸らした。

その様子が何だか可笑しくて、僕は思わず笑ってしまう。

すると彼女がこちらを見る。

「何」

「いや」

それ以上は言えない。

でも彼女は、僕が笑った理由をなんとなく分かったみたいだった。

ほんの少しだけ、彼女も笑った。

その瞬間、不意に目が合った。

ほんの一瞬。

けれど彼女は、いつもみたいにすぐには逸らさなかった。

波の音が遠のいたように感じた。

何かを言いかけて、結局何も言わない。

その沈黙のほうが、言葉よりずっと近く感じられた。

やがて彼女が静かに視線を海へ戻す。

それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。


帰り道。

住宅街の灯りが、さっきより増えていた。

どこかの家から、テレビの笑い声が漏れてくる。

お母さんが少し前を歩く。

僕と彼女は並んで、その後ろをついていく。

「弟」

彼女がぽつりと言った。

「たぶん、まだ宿題してない」

「そんな気はする」

僕が答えると、彼女は小さく笑う。

「帰ったら怒られる」

「僕まで巻き込まれそうだな」

「それはない」

間髪入れず返ってきて、僕は少し笑う。

坂道の途中で、彼女がふいに足を止めた。

僕も立ち止まる。

彼女は坂の上の家を見上げて、それからごく自然な調子で言った。

「今度は」

少しだけ間があく。

遠くで、波の音が規則正しく響いていた。

「最初から来れば」

僕は、その意味をすぐには飲み込めなかった。

海浜清掃の帰りに、たまたま流れで立ち寄った今日とは違う。

最初から。

最初から、あの家へ。

それはまるで、

今日という時間が偶然なんかじゃなく、

次はもう、当たり前のものとしてそこにあると言われたみたいだった。

「……いいの?」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。

彼女は少しだけ首をかしげる。

「何が?」

「そんなふうに」

それ以上、言葉が続かなかった。

ちゃんとここにいてよかったのだと、

そう思ってしまっていることを知られるのが、少しだけ怖かった。

彼女は僕をまっすぐ見た。

街灯の淡い光の中で、その瞳だけが静かに揺れている。

そしてほんの少し視線を伏せてから、またこちらを見た。

「言わないと分からない?」

その声は、からかうようでもあり、

どこか少しだけ照れているようでもあった。

その一言だけで、

言葉にされなかったものが確かに伝わってくる気がした。

僕が返事を探して黙っていると、

彼女は小さく息をついて、少しだけ笑った。

「別に、遅かったわけじゃないし」

その言葉に、僕は一瞬息を止めた。

彼女は、あのときと同じ静かな目で僕を見つめたまま言った。

「それに、負けず嫌いなんじゃなくて」

ほんの少しだけ口元を緩める。

「きっと、真面目すぎただけ」

その言葉が、胸の奥に静かに沁みていく。

遅れていない。

間に合っている。

ただ、必要以上に力を入れすぎていただけなのだと。

胸の奥で、ずっと張りつめていたものが静かにほどけていく。

その瞬間、胸の奥で何かが確かに鳴った。

大きな音ではない。

けれど波が防波堤に届くみたいに、

静かに、はっきりと。

見上げた坂の上には、あの家の灯りがあった。

さっきまで知らない家だったその明かりが、

今は夜の町のどの灯りよりも、はっきりと目に映る。

ただ、

そこへ向かう道のかたちを、

もう自分の足が覚えてしまったような気がした。

「……うん」

ようやくそれだけ返す。

彼女は満足したように小さくうなずいて、また歩き出す。

前を歩いていたお母さんが、何も言わずに少しだけ振り返る。

そのやわらかな笑顔が、街灯の下で静かに揺れた。


坂の上には、あの家の灯りがともっている。

窓の向こうには、きっとさっきまでいた食卓があって、

弟が宿題をごまかそうとして、

お母さんが笑っていて、

彼女が静かにそれを見ている。

そして、その景色の中に、

次は僕もいるのかもしれないと思った。

潮の匂いを含んだ夜風が、静かに頬をかすめる。

海のほうから、規則正しい波の音が届く。

その音を聞きながら僕は思う。

もし今日が夢だったとしても、

きっと目が覚めたあとも、この潮騒だけはどこかに残り続けるだろう。

まるで、

あの日見た夢の続きを、

これからも二人で静かに歩いていくみたいに。

これで今朝の夢は終わり。

こんな夢を見たのは、仕事で納期に追われてたのが一区切りついたからかも。

ここまで個人的な夢の話を読んでくれてありがとうございました。

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