表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

第八話 夜になる前の海

「海、見に行く?」

彼女の言葉に、僕は一瞬だけ聞き返しそうになった。

でもその声色はあまりにも自然で、

まるで「ちょっと外の空気でも吸いに行こう」と言うのと変わらない響きだった。

「……うん」

そう返すと、彼女は小さくうなずく。

その時、台所で食器を拭いていたお母さんが顔を上げた。

「あら、じゃあ私も行こうかな」

僕は少し驚く。

するとお母さんは楽しそうに笑った。

「この時間の海、きれいなのよ」

彼女は慣れた様子で、

「上着着てきて」

とだけ言う。

弟はリビングから顔を出して、

「僕はゲームしてる」

と宣言した。

「宿題は?」

彼女が聞くと、弟は一瞬だけ固まる。

「……あとで」

「先にやって」

お母さんがくすっと笑う。

「帰るまでには終わってるといいわね」

弟は不満そうな顔をしながら、しぶしぶ机へ戻っていった。


玄関を出ると、空は群青に染まりかけていた。

海のほうから、少し冷たい風が吹いてくる。

僕たちは三人で坂を下った。

彼女が前を歩き、僕とお母さんが少し後ろを並ぶ。

住宅街の窓には明かりがともり始めている。

どこかの家から夕飯の匂いが漂ってきた。

静かな生活の気配が、街全体をやわらかく包んでいる。

「海浜清掃、お疲れさま」

お母さんが穏やかに言う。

「ありがとうございます」

「うちの子、ちゃんと働いてた?」

少し困っていると、前を歩いていた彼女が振り返りもせず言う。

「普通」

僕が答えるより先に言った。

「自分で言う?」

僕が聞くと、お母さんが笑った。

「あの子なりに、頑張ったんだと思うわ」

彼女は何も言わない。

でも少しだけ歩く速さが変わった気がした。

やがて防波堤へ出る。

夜になる前の海が、深い青をたたえていた。

波がコンクリートに当たるたび、白い泡がかすかに浮かぶ。


三人で海沿いをゆっくり歩く。

しばらくは誰も何も言わなかった。

ただ波の音だけが規則正しく響いている。

やがてお母さんが、海を見ながらぽつりと言った。

「この子、小さい頃からここが好きなの」

彼女は少しだけ肩をすくめる。

「別に」

「考えごとしたい時、よく来るのよ」

「言わなくていい」

少しだけ拗ねたような声。

でも本気で嫌がっている感じじゃない。

お母さんはくすっと笑って、今度は僕を見る。

「学校、どう?」

不意の問いに少し考える。

「……まあ、普通です」

そう答えると、お母さんは優しくうなずいた。

「それがいちばんよ」

その言葉が、なぜだか静かに胸へ残った。

波の音が響く。

その中で、彼女がふいに僕を見る。

「テスト」

「ん?」

「三部、惜しかったね」

昼のバスでも聞いた言葉だった。

でも今は、潮風の中で聞くせいか少し違って聞こえる。

僕が苦笑すると、彼女は海へ視線を戻したまま言う。

「次は最後まで解けるといいね」

それは励ましでも挑発でもなかった。

ただ、ごく自然にそう思っているみたいな言い方だった。

「……そうだな」

僕も海を見る。


暗くなり始めた水面が、遠くでかすかに光っていた。

この人たちの間には、

きっと僕の知らない長い時間がある。

それなのに今、その輪のすぐそばを一緒に歩いている。

背後には灯りのともる家がある。

そのことが、胸の奥に静かなあたたかさを残していた。

波は変わらず寄せては返す。

まるで、ずっと前からこの時間がここにあったみたいに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ