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第六話 海の見える窓

案内されるまま廊下を進む。

床はきれいに磨かれていて、歩くたびにかすかに軋んだ。

奥の部屋からはテレビの音がする。

台所では鍋の蓋が鳴る音。

どれも、ごく普通の生活の音だった。

それが不思議なくらい心地よかった。

「こっち」

彼女が振り返り、リビングの扉を開ける。

窓の大きな部屋だった。


レースのカーテンが海風に揺れている。

その向こうには、防波堤と、その先の灰色の海が見えた。

思わず足を止める。

「……すごいな」

僕がそう言うと、彼女は窓のほうをちらりと見た。

「見慣れてる」

そっけない返事だったけれど、どこか少しだけ誇らしそうにも聞こえた。

「座ってて」

そう言って彼女は台所のほうへ消える。

僕は言われた通り、窓際のソファに腰を下ろした。

柔らかすぎず、少しだけ沈む。

目の前のローテーブルには、数学の参考書とノートが何冊か積まれていた。

開いたままのノートには、整った字でびっしり数式が並んでいる。

見ただけで、いかにも彼女らしいと思った。

「見てる見てる」

突然、横から声がした。

弟だった。

いつの間にかすぐ隣に立っている。

「びっくりした」

「ねえ、ほんとに負けたの?」

「お前、そればっかだな」

弟は悪びれもせず笑う。

どこか彼女に似ているけれど、ずっと感情が表に出やすい。

「お姉ちゃん、強いよ」

「知ってる」

「でもたまに変なミスする」

「余計なこと言わないで」

いつの間にか戻ってきた彼女が、弟の頭を軽く小突いた。

弟は「いて」と言いながらも楽しそうに笑う。

その手にはグラスが三つ載った盆があった。

麦茶だった。

氷がからん、と小さく鳴る。

「どうぞ」

「ありがと」

受け取ると、指先がほんの少し触れた。

それだけなのに、妙に意識してしまう。

彼女は何でもない顔で向かいに座った。

弟はその横にどかっと腰を下ろす。


しばらく、静かな時間が流れた。

窓の外では、波が防波堤にぶつかっている。

台所からは、お母さんが鼻歌まじりに何かしている音が聞こえた。

その時、弟が急に身を乗り出した。

「ねえ、数学得意なの?」

「まあ……普通」

「嘘つけ。お姉ちゃんに勝てないんでしょ」

「うるさい」

僕が言い返すと、弟はけらけら笑う。

そのやりとりを見て、彼女が少しだけ口元を緩めた。

「でも」

弟が真顔になって僕を見る。

「お姉ちゃん、今日ちょっと機嫌いいよ」

「は?」

思わず彼女を見る。

彼女は一瞬だけ目を見開いて、それから弟をにらんだ。

「余計なこと言わない」

「だってほんとじゃん」

弟は楽しそうに笑って立ち上がり、そのまま逃げるように部屋を出ていった。


ぱたぱたと廊下を走る音。

少しの沈黙。

僕は何と言っていいか分からず、麦茶の氷を見つめた。

からん、とまた小さく鳴る。

やがて彼女が窓の外を見たまま、小さく言った。

「……気にしなくていいから」

「うん」

それしか返せない。

でも、その沈黙は嫌じゃなかった。

しばらくして、彼女がぽつりとつぶやく。

「ここ、夕方きれいなんだ」

僕も窓の外を見る。

雲の切れ間から、薄い西日が海に差し込み始めていた。

灰色だった水面に、細い金色の筋が浮かんでいる。

「ほんとだ」

僕が言うと、彼女は小さくうなずいた。

それから。

「食べてく?」

あまりに自然な調子で言うものだから、僕は一瞬意味が分からなかった。

「え」

「もうすぐできるし」

台所から、ちょうどお母さんの明るい声が飛んでくる。

「そろそろカレーきるわよー」

弟の歓声が聞こえた。

僕は彼女を見る。

彼女は海のほうを向いたまま、静かに言った。

「嫌ならいいけど」

その横顔は、少しだけ様子をうかがっているようにも見えた。


窓の向こうでは、海がやわらかい光を返している。

僕はその景色を見つめながら、

ここへ来る少し前まで、こんな時間が待っているなんて思いもしなかったことを考えていた。

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