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第五話 坂の上の家

「来る?」

その一言が、波の音にまぎれて耳に残った。

僕はすぐに返事ができなかった。

ただの冗談のつもりだった。

軽く言って、軽く流されると思っていた。

それなのに彼女は、ごく自然な顔をしている。

からかっている様子もない。

本当に、ただ聞いているだけみたいだった。

「……いいの?」

ようやくそれだけ返すと、彼女は小さくうなずいた。

「弟、喜ぶと思う」

その言い方が妙に可笑しくて、僕は少し笑った。

「何で」

「負けず嫌いな人、気になるらしい」

「何だそれ」

「知らない」

彼女は少しだけ口元を緩める。


それから、ごみ袋を軽く持ち直して歩き出した。

防波堤の先には、海沿いの住宅街が見えている。

低い家並みの向こうに、灰色の空が続いていた。

清掃が終わる頃には、雲の切れ間から薄い光が差し始めていた。

生徒たちはそれぞれバスへ戻り始める。

先生が点呼を取り、解散の指示を出す。

そのざわめきの中で、彼女がこちらを見た。

「こっち」

短くそれだけ言う。

僕は男友達のほうを見る。

あいつは少し離れたところで、軍手を外しながらこちらを見ていた。

目が合うと、にやっと笑って片手を上げる。

「じゃ、また月曜」

それだけ。

何も聞いてこない。

その軽さがありがたかった。

「おう」

僕も手を上げて、それから彼女の後を追った。


海沿いの道を歩く。

コンクリートの上にはまだ少し潮が残っていて、靴底がかすかに湿る。

彼女は少し前を歩いていた。

振り返りもしない。

でも、不思議と置いていかれている感じはしなかった。

やがて防波堤を抜け、住宅街へ入る。

細い坂道を少し上がったところで、彼女が足を止めた。

「ここ」

少し古ぼけてはいるが、綺麗に保たれた、白い二階建ての家だった。

玄関の横に、小さな青い自転車が立てかけてある。

庭先には鉢植えがいくつか並んでいて、そのうちのひとつには小さな黄色い花が咲いていた。

彼女が扉を開ける。

「ただいま」

すぐに、明るい声が返ってきた。

「おかえりー!」

それと同時に、ばたばたと足音が近づいてくる。

勢いよく現れたのは、小柄な男の子だった。

彼女によく似た明るい髪。

ぱっと僕を見て、目を丸くする。

「ほんとに連れてきた!」

彼女が少し眉をひそめる。

「うるさい」

「だってほんとじゃん」

その後ろから、台所のほうで誰かが笑う声がした。

「お客さん?」

顔を出したのは、彼女のお母さんだった。

エプロン姿で、夕飯の支度中らしい。

どこか彼女に似た穏やかな目元をしている。

僕は慌てて頭を下げた。

「こ、こんにちは」

「こんにちは。いらっしゃい」

柔らかな声だった。

そのあまりの自然さに、少し拍子抜けする。

もっと気まずいものを想像していた。

でもこの家には、そういうよそよそしさがなかった。

台所からは味噌汁の匂いが漂ってくる。

玄関には少し湿った潮風。

その全部が混ざって、妙に落ち着く空気になっていた。


「上がって」

彼女が言う。

靴を脱ぎながら、僕はふと思う。

そういえば、こうして同級生の家に来るなんていつぶりだろう。

いや、もしかしたら初めてかもしれない。

廊下の奥から、弟がひょこっと顔を出して僕を見る。

それから、いたずらっぽく笑った。

「テストでお姉ちゃんに負ける人?」

「おい」

思わず声が出る。

すると台所からお母さんが笑いながら言った。

「こら、失礼でしょ」

弟はけらけら笑って逃げていく。

彼女は小さくため息をついた。

「ごめん」

「……いや」

僕も思わず笑ってしまう。

その時だった。

窓の外から、波の音が聞こえた。

この家は海に近い。

それが急に、はっきりと実感された。


そして僕は、まだ玄関に立ったままなのに、

なぜだかずっと前からここを知っていたような気がしていた。

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