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第一話 時間切れ

右隣で、彼女がペンを置いた音がした。

その瞬間、自分の負けを知った。

まだ第三部の一問目。

式の途中。

時計の秒針だけが、やけに大きく響いている。

教室は静かだった。

誰かがページをめくる音。

遠くでカラスが鳴く声。

六月の薄曇りを通った白い光が、窓際の机をぼんやり照らしている。


右隣に座る彼女は、もう問題用紙を閉じていた。

小柄な肩がわずかに机へ預けられている。

肩につかない明るめの髪が、窓からの光を受けて少しだけ透けて見えた。


残り五分。

期末試験、数学。

問題は三部構成だった。

一部は基礎。

二部は応用。

三部は、教師が「ここで差がつく」と言っていた。

僕は二部を解き終えたところで、ようやく三部にたどり着いた。

彼女は、全部終わっている。


見なくても分かった。

彼女はいつもそうだった。

順位表の一番上。

返却された答案はほぼ満点。

そして、何でもない顔。

勝ち誇ることもない。

だから余計に悔しい。

息を詰めて、式を書く。

解法の入口は見えている。

けれど焦るたびに数字が指から滑っていく。


右隣は静かだった。

彼女はきっと、窓の外でも見ている。

その余裕が腹立たしい。

「残り一分」

先生の声。

喉の奥がひりつく。

まだ途中だ。

あと少し。

あと少しだけ時間があれば。

式を書きかけたところで、

「はい、そこまで」

終わった。

教室に一斉にため息が広がる。

僕はシャーペンを置いて、机に軽く額をつけた。


負けた。

たぶん今回も。

答案が前へ回されていく。

その時だった。

右隣から、小さな気配がした。

彼女がこちらを見ている。

ほんの数秒だけ。


それから、様子をうかがうように静かな声が落ちてきた。

「……最後、時間足りなかった?」

顔を上げる。

彼女はもう前を向いている。

からかうような言い方ではなかった。

ただ、事実を確かめるみたいな、いつもの淡々とした声。

「お前は終わってたじゃん」

そう返すと、彼女は少しだけ口元を動かした。

笑ったのかもしれない。

「ギリギリ」

嘘だ、と思った。

でもそれ以上は何も言わない。

少しして立ち上がり、鞄を肩にかける。

そして教室を出る直前、振り返らずに言った。

「今回は全体的に難しかった」

それだけ残して、廊下へ消えた。


窓の外には、遠く灰色の海が見えていた。

机に残ったままの右手をゆっくり握る。

悔しいはずだった。

たぶん、ちゃんと悔しかった。

なのに胸の奥には、それとは少し違う何かが引っかかっていた。

右隣に残った、かすかな気配。

窓から吹き込む風に混じった、明るい髪の揺れる気配。


その正体をうまく言葉にできないまま、

僕はしばらく、誰もいなくなった右隣の席を見ていた。

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