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(1)捜査開始

 リンドン特別区にあるロイヤル・オペラホールは、百年以上の歴史を持った壮麗なホールである。名だたる劇団、オーケストラの本拠地であり、メイズラントの文化における中核的存在のひとつと言って差し支えない。


 その、豪華なアーチ型天井を備えたホールは現在、エントランスにロープが張られ、警察や政府関係者が出入りする、ものものしい雰囲気に包まれていた。それを取り囲むように報道陣が集まっていたが、一人の刑事が現在提供できる情報はない、公式発表を待て、と声を張り上げている。

 現場検証に当たっているのはメイズラント警視庁重犯罪課で、指揮を執るのは首都リンドン市民なら知らぬ者はいない、デイモン・アストンマーティン警部である。


「遺体の搬送は完了しました」

 事件現場で空間を睨むデイモン警部に、短髪の若い刑事が報告した。渋い顔でデイモンは頷く。

「弾丸は」

「鑑識に回しました。細かい検証はまだですが、回収した者が線条痕を目視で判断した限りでは、おそらく狙撃用に改修された小銃だろう、との事です」

「そうだろうな」

 警部は、被害者の頭部を側面から撃ち抜いた弾丸が、太い柱に残した痕を睨むと、その反対側に目をやった。テラスの両脇に立った太い柱と、建物側からせり出した仕切り状の壁の間に、オペラホール向かいの低い建物の奥に見える6階建てのビルが見えた。

「ここから、あのビルまでは500m少しという所か」

「はい。ですが…」

 若い刑事は、デイモンと同じようにそのビルが望めるわずかな隙間を見る。被害者が立っていた位置からビルを直線で結んだとして、弾道に使える空間の幅は8cmあるかないか、という所である。

「狙撃は不可能ではないかも知れませんが…」

「条件は厳しいか」

「はい」

 それは名刑事どころか、6歳の子供が考えてもわかる事だった。500mの距離から、8cm以下の隙間をくぐり抜けて標的のこめかみを撃ち抜くというのは、並大抵の技量ではない。

「そうなると、犯人は相当な狙撃の実力の持ち主、という事になる」

「そんな人物となると…軍人でしょうか」

「まだ捜査は始まったばかりだ。迂闊に結論は出せん。警察にだって狙撃手はいるし、民間にだって射撃競技の選手もいるのだ」

 そう言いながらも警部の脳裏には、つい4ヶ月ほど前のローバー下院議員狙撃事件が思い起こされていた。あのケースは狙撃に魔法が使われており、弾丸も短射程の拳銃のものという、非常に特殊なケースで魔法捜査課の協力が不可欠だった。

 しかし、今回に関しては今のところ、困難ではあるが魔法といった要素を排除しても説明はつく。弾道と見込める条件は揃っているのだ。

「今の所はな」

 誰にともなく、警部は呟いて陽が傾いてきた空を眺めた。そこへ、聞き覚えのあるリズムの足音が硬い階段を鳴らして、下階から上ってきた。

「思っていたより遅かったな」

 多少呆れ気味に、デイモン警部は鼻で溜息をついた。


「どんな状況ですか」

 さも当然のように事件現場に現れたその声の主は、魔法捜査課のアーネット・レッドフィールド刑事だった。もともと赤みを帯びたブラウンの髪が、夕日に当たってますます赤くなる。まだ現場に残る血痕と相俟って、なんとなく不気味だなとデイモン警部は思った。

「相変わらず君の辞書に、管轄という言葉はまだ載っておらんようだな」

「載ってはいるんですがね。そのページを開く事が滅多にない」

 くだらない軽口を叩きつつアーネットは膝をついて、被害者が倒れていた姿勢を示す、白いチョークのラインを観察した。

「ふむ」

 そう呟いて、すでにデイモン警部が確認した、弾道と思われる柱と壁の隙間に目をやる。その向こうに見える、やや高いビルを見ながらデイモン警部に訊ねた。

「あのビルはもう調査済みですか」

「さきほど鑑識を向かわせた。まもなく報告が届くだろう」

「あれぐらいの距離で狙撃した例というと、俺がそっちにいた頃のあのケースを思い出しますね」

 アーネットが引き合いに出した「あのケース」とは、まだ重犯罪課に所属していた頃の事件だった。とある上院議員と、軍需産業に繋がりがある実業家の癒着疑惑を追求していた一人の新聞記者が、カフェでコーヒーを飲んでいた所を、350m離れたビルから狙撃、殺害されたのだ。

 そのケースでは最新型の狙撃銃が用いられており、すぐに製品が割り出され、流通ルートを辿ったすえに上院議員がギャングに暗殺を指示した事が、ほどなく明るみに出たのだった。

「あの事件は…被害者がいるのにこういう言い方は良くないが、比較的スムーズに解決できたケースだ。おまけに、議員とギャングの繋がりまでが明らかになった所から、芋づる式に政財界や裏社会の大物の悪事が、副次的に暴かれる事になったからな」

「あの新聞記者、死んだあとで警視総監から表彰されてましたね」

「そういう男だ。あの死んだ記者が訴えていた通り、贈収賄疑惑に警察がメスを入れていれば、そもそも彼は死なずに済んだかも知れないのだ」

 無能なくせに他人の死は自らの虚飾に最大限利用する、とデイモン警部は吐き捨てた。その警視総監が、いまだアーネット達の一番上の上司である事はなかなか背筋が寒くなる事実だった。

 そこへ、ぞろぞろと3名の鑑識チームを連れた刑事が戻って来た。癖毛が相変わらずのその刑事は、アーネットの重犯罪課時代の相棒、エドワード・カッターである。

「おっ、どうした。魔法捜査課をクビになったか、レッド」

 レッド、とはアーネットが一部の人間達から呼ばれる通称である。殺人事件の現場の重い空気を振り払うように、カッターはわざとらしく冗談を言った。

「残念ながら現役だよ。あのビルを見て来たのか」

「ああ」

 真面目な顔で、カッターはデイモン警部に向き直った。

「狙撃地点と思われるビルを調査してきました」

「うむ。何か発見できたか」

「ひとまず、不審な人物の出入りの目撃証言などは得られませんでしたが」

 そう言いながら、カッターは振り向いて鑑識チームに説明を促す。チームはベレー帽を横に縮めたような独特のデザインの帽子を一律に被っており、これが目印であった。リーダーらしき男性が、小さな麻袋を開いてデイモン警部に歩み寄る。

「屋上で発見しました」

 鑑識が麻袋から取り出してみせたそれは、薬莢だった。デイモン警部は予期していたかのように頷き、それを手に持って見る。

「現場で見つかった弾頭とは」

「ラボに持ち帰って検証しますが、私が見た限りでは、おそらく一致するでしょう」

「ふむ」

 やや拍子抜けしたような顔で、警部は薬莢を鑑識に返す。

「薬莢以外に何か目立ったものは?足跡はどうだ」

「それが、ビル屋上の床は足跡などが残りにくい材質になっておりまして…明日、明るくなってから再度入念に調べる予定ですが、難しそうです」

「わかった。ひとまず、薬莢と弾頭が一致するかどうか、ラボで調べてくれ」

「了解しました」

 鑑識チームは、敬礼すると速やかに階段を降りて行った。まだ鑑識という部門が警察に導入されて日が浅く、どうもその運用にも警察自体が慣れていないな、と警部は思う。そもそも、科学による捜査という概念じたいが、ほんの十数年前にやっと認識されたくらいである。それを考えると、まだ発足して3年しか経っていない魔法捜査課のまとまりは目を瞠るものがあった。

「なんだか、えらくあっさり狙撃地点が判明しましたね」

「まだわからん。捜査は始まったばかりだ。それに、狙撃地点と使用された銃の推定ができたとしても、犯人に辿り着けなければ意味がない」

 デイモン警部の思考では、すでに焦点は犯人の人物像に移っていた。

「上院議員を狙撃した犯人の人物像について、早急に絞り込む必要がある。カッター、全員会議室に集合するよう伝えろ」

「了解しました」

「それと、わかっているだろうが、新聞社に追及されてもまだ何も言うなよ」

 わかってますとも、と言ってカッターは肩にかけていたジャケットを羽織る。メイズラントは夏でも、夕刻を過ぎると涼しくなる日も珍しくない。

「レッド、どうやら今回はお前さんたちの出番はなさそうだな」

「そうだといいがな」

「なんだ?顔に残念って書いてあるぞ。じゃあな、ヤマが終わったら飲みに行こうぜ」

 カッターは相変わらずのフランクさで、軽快に階段を降りて行った。この、大変な事件の最中に務めて明るく振舞う元相棒の性格も変わらないな、とアーネットは思う。内心では真剣なのだが、自分からムードメーカーを買って出るようなところがカッターにはあった。

 何となくトントン拍子に物事が進むので、いよいよアーネットも自分達の出番はなさそうだ、と思い始めた。デイモン警部はハットを被る。

「まあ、この先どう進展があるかはわからんが、今回はカッターの言う通り、君らの活躍の機会はないかも知れんな」

「そうですね」

「だがな」

 警部は、夕日に向かって眉をひそめた。

「わしの長年の経験からすると、捜査の初期段階がトントン拍子に進む事件は、だいたいその後で厄介な事になる」

「だいたいって、どの程度のだいたい、なんですか」

「知らん。だいたい、と言ったらだいたいだ」

 何ともハッキリしないが、デイモン警部が会話を投げっぱなしにする人間である事は、アーネットもよく知っているのでそれ以上何も言わない事にした。

「まあ、厄介な事になるとしても、君らの案件でない可能性もあるがな」

「ここ最近の大きな事件は、なし崩しに重犯罪課と合同捜査になってましたからね。何となく、身構えてしまいます」

「とりあえず、今日の所はもう君に伝えられる事もない。さっさと帰って、一杯ひっかけたらどうだ」

 デイモン警部は笑う。アーネットの酒好きは今に始まった事ではないのを、この老刑事はよく知っていた。アーネットも、ここに居ても仕方ないと思い、肩をすくめて階段に足を向ける。

「俺たちも明日は一応、待機を命じられてますんでね。それじゃ帰るとします」

 そう言って階段を降りようとするアーネットを、警部は「レッドフィールド」と呼び止めた。

「こういう状況でする話ではないし、君がこういう話を嫌うのはよく知っているうえでの事だがな」

 そう勿体つける切り出しに、アーネットは話の内容をだいたい予測しつつ答えた。

「何でしょう」

「世間並みの、年寄りの話だと思ってくれ。…そろそろ、家庭を持つつもりはないのか」

 その、まさしく世間並みの勧めに、アーネットは苦笑とも何ともつかない表情で答えた。

「持とうと思った事はありますけどね」

 それは、何年か前にアーネットがある女性に求婚し、断られた出来事を指していた。女好きで通っていたアーネットが、その出来事を境にどの女性とも交際する事がなくなったのは、有名な話である。

「君はプライベートについてあれこれ言われるのを嫌う奴だ。だから、しつこく言うつもりはないよ。だが、帰る場所がある、というのは良い事だ。特に我々のような仕事をしている者には、心の置き場所が必要だ」

 デイモン警部がかつての部下を心配している事は、アーネットにはよくわかった。そのため、余計なお世話だとはね付ける事はできない。なので、言われたくない話も今はおとなしく聞く事にした。

「考えておきますよ」

 それだけ言うと、アーネットは黙って石の階段を、高い反響音を立てながらエントランスホールへと降りて行った。


 


 陽が完全に落ちた頃、自宅で夕食を済ませた少年刑事アドニス・ブルーウィンド少年が、部屋のランプの灯りで探偵小説「エルロック・ギョームズ」最新刊を読んでいる時の事だった。ギョームズが助手のアンダーソンと共に、さる豪邸のカーテンの陰に身を潜めるくだりまで差し掛かった時、ブルー自身も部屋のカーテンの外側に、何か違和感を感じた。

「何だ?」

 ブルーは本にスピンを挟んでサイドテーブルに置くと、カーテンをゆっくり開けた。そして、窓の外にいるものを見付けて、すぐに理解した。

 2階の、ブルーの部屋の窓の外にいたのは、紅く目を輝かせた一羽のカラスだった。カラスは木の枝に留まり、じっとブルーを見ている。そのカラスが何者かよく知っているブルーは、ガラス窓を開けて語り掛けた。

「もしかして、先生が呼んでる?」

 ブルーが訊ねると、カラスは静かに首を縦に振った。このカラスはブルーの魔法の師、大魔女テマ・エクストリームの使い魔である。その名をガーネットと言った。

「わかった。すぐ行くって伝えて」

 すると、カラスは再び頷いて枝から飛び立つと、夜の闇の中へと消えて行った。


 ブルーが住む屋敷の背後にある森の中に、円柱が円周上に並んだ石造りのサークルがある。ここは、ブルーが幼い頃から魔法を学んできた場であり、今でも師から教えを学ぶ場であった。

 夜の冷たい空気の中を、魔導師のローブをまとってブルーがサークルまで歩いて来ると、その中心にすらりと立つ人影があった。黒いローブに長く真っ直ぐな黒髪を垂らし、夜の闇でもくっきりと月明かりに映える白い肌と、妖絶な紅い唇。それが、魔女テマ・エクストリームだった。円柱のひとつの上に、ガーネットが行儀よく控えていた。

「どうしたの?先生が呼びだすなんて珍しいね」

 どこか荘厳な雰囲気のなかで、およそ風情も緊張感もない様子でブルーは訊ねた。テマは、いつものように切れ長の黒く美しい目をブルーに向ける。

「今宵は涼しい風が吹いている。何かを学ぶには、頭が冴えて良いかと思ったのでな」

「ふうん」

 何気なく相槌を返しながらも、ブルーは少し緊張の色を見せた。すでに多くの事をテマから学んでいる。そのブルーに何かを改めて教えるという事が、何を意味するのか。だが、その内容はブルーが考えているものと、やや異なるものだった。

「アドニス。人間は、ひとつの思考を過信する生き物だ。その原因は二つある。ひとつは、自分以外の誰かから伝えられた思考を、無批判に妄信すること」

 相変わらず唐突に問答を切り出す人だ、とブルーは思った。魔女テマとは、そういう人物である。

「もうひとつは何か、わかるか」

 テマがブルーに回答を促すも、いきなり言われてすぐに答えは出て来ない。だが、ブルーはなんとか答えてみせた。

「自分に己惚れる事かな」

「当たらずとも遠からず、という所だな」

 その反応も相変わらずだ、とブルーは思う。しかし、ブルーはこういう教育を、もっと小さい頃から繰り返し受けてきたのだ。テマは、冷たい微笑を浮かべて言った。

「人間は、自らの経験、自らが見たものに絶対の信頼を寄せる事が往々にしてある。これは、誰かに思考を委ねる事とは、対極の意識だ」

 ブルーは、ただ黙って聞いていた。テマはお構いなしに続ける。

「誰かを神格化して、その言葉を金科玉条とする意識と、自分の経験だけを絶対視して他者を排除する意識は、方向は違っても意識のレベルとしては同じだ。独裁者を妄信する民衆と、自身を絶対だと思い込む独裁者が組み合わされば、最悪の事態を招く。あと50年もしないうちに、どこかの国でそれは起こるだろう」

 そろそろブルーも、一体何を言いたいのだろうかと首を傾げ始めた。回りくどいにも程があるが、これがテマのブルーへの教育なのである。

「アドニス。自らの経験を過信してはならない。それは、お前の目を曇らせる」

 そう言うと、テマは何かを懐から取り出して、ブルーに示した。それは、一冊の古めかしい本だった。黒い表紙には文字が箔押しされているが、擦れてしまって読む事ができない。本は、フワフワと宙を漂ってブルーの手元までやってきた。

「何これ」

 本を受け取ると、ブルーはそれを開いてみた。しかし、何かの力が働いていて、一向に開く事ができない。

「その書は、お前が必要とした時にだけ開かれる。何かを虚心に訊ねた時にだけ、書はお前に語り掛けてくれる。私が伝えた言葉を忘れるな」

 それだけ言うと、テマは無言で暗闇の中に溶けるように姿を消してしまった。柱の上のガーネットも、いつの間にかいなくなっている。残されたブルーは、開けない本を抱えて眉間にシワを寄せた。

「なんだか、年々やる事が抽象的で回りくどくなってきてる気がする」

 少年のぼやきは暗闇の森に吸い込まれ、誰の耳に届く事もなかった。

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