緋色の射手 -プロローグ-
メイズラントは高緯度なわりに海流などの影響で比較的暖かい国だが、一年で最も暑いこの7月でも、気まぐれで摂氏30度を超える日が数日あるかどうか、というところである。その7月上旬の、涼しいある昼下がりの事だった。
貴族院、保守党のロブ・ミーガン議員は58歳、党では古参の人物であった。ややエラの張った顎に血色の良い肌、白髪が多いものの豊かな毛髪、背は低いが体格は良い、といった風貌である。メイズラントでは珍しくもない典型的な権威主義、排外主義論者で、庶民院の議員からは常日頃「中世からの既得権の亡霊」などと揶揄、批判されていた。
その議員が趣味の歌劇鑑賞を終え、大ホール2階テラスラウンジで上機嫌に紅茶を傾けていた時の事だった。テラスは広く、南面は当然屋外に面しているが、それ以外はほとんどが壁や柱で遮られている。
ミーガン議員は日頃の雑事を忘れ、同行していた各界の紳士淑女達と、観終えたばかりのプログラムについて語り合っていた。議員は芸術全般に造詣が深いわけではないが、歌劇についてだけは語ると止まらなくなる事で知られている。
その議員が、お気に入りの女優の透明なソプラノの素晴らしさを力説するために立ち上がった、その時だった。
南側を向いている議員の、右のこめかみから、赤い飛沫が飛ぶのが見えた。さては入ったばかりのそそっかしいボーイがうっかり足をひねって転び、運んできたワインを議員にぶちまけたのだろうか。
だが、視線を議員に集中させていた諸氏の表情が恐怖に変わり、華麗なドレスをまとった子爵夫人の絶叫がラウンジに響き渡るのに、5秒と要しなかった。
ミーガン議員は右のこめかみから鮮やかな赤い血を吹き出しながら、西側に向かってゆっくりと倒れ、その口から歌劇への熱弁が振るわれる事は二度となかった。
メイズラントヤード魔法捜査課/緋色の射手
-プロローグ-
【フール男爵ロブ・ミーガン上院議員、何者かに狙撃さる】
唐突な訃報とともに、メイズラント首都リンドンに衝撃が走り、厳戒態勢が敷かれたのがその日の夕方だった。
「こいつはまた、退勤時刻寸前に厄介な事になったな」
ここはメイズラント警視庁の新庁舎の横にある旧庁舎跡地の地下室、魔法犯罪特別捜査課オフィスである。アーネット・レッドフィールド巡査部長はデスクに脚を組み、大急ぎで配られたデイリー・メイズラントの号外を睨んだ。組版を急いだらしく、誤字脱字が凄まじい事になっており、ミーガン議員はそう長くもない記事本文中で3度も改名を強いられていた。
「定時で帰れるのかな」
13歳の少年刑事アドニス・ブルーウィンド特別捜査官、通称ブルーは、目下いちばん気になっている問題について呟いた。
「不謹慎よ」
そう諫めるのは、まだ若いが元情報局員という経歴を持つ異色の女性刑事、ナタリー・イエローライト巡査である。ブルーが不謹慎なのはいつもの事なので、それ以上は特に何も言わなかった。
「ま、今の所俺たちにお鉢が回って来る事はないと思う…いや、思いたいが」
アーネットの希望的観測に、ナタリーは渋い顔をした。
「名探偵さんはどう思うの?今回の事件」
「こんな誤字だらけの短い号外だけじゃ、判断のしようがない。とっくにデイモン警部たちは動いている筈だがな」
「私も一通り読んだけど、まあ遠距離狙撃という極めて特殊な殺人事件ではあっても、私たちの案件かどうかは難しいところね」
ナタリーの意見に、ひとまずアーネットも同意して頷いた。
号外から伝えられるところによると、ミーガン議員狙撃の状況は以下のようなものである。まず議員を撃ち抜いた銃弾はまだ警察からの発表がないため不明だが、リークされた情報によれば、長距離狙撃銃のものである事は間違いなさそうだった。
議員はテラスの東側方向から狙撃されており、その方向には狙撃に使えそうなビルディングが存在する。従って、物理的には狙撃が十分に可能な状況であると推測された。
「まあ、ほんの4カ月前にあの事件があったせいで、狙撃事件となれば身構えてしまうのは致し方ないがな」
アーネットが挙げたのは、下院議員ジミー・ローバー氏が自宅で狙撃された殺人事件の事である。その事件では殺害の証拠を隠滅するために魔法が用いられており、解明するためには彼ら魔法捜査課の知識と能力が不可欠なケースだったのだ。
「アーネット。あなた本当は現場に行きたいんでしょ」
やや意地悪そうな表情で、ナタリーはアーネットを見た。アーネットは図星をつかれたように黙りこくる。
「だいたいわかるわ、あなたの行動パターンは。私達二人がいなくなった頃合いを見て、自分だけこっそり勝手に現場に行って、調べるだけ調べてしれっと抜け出すつもりでしょう」
「なんでわかるんだよ!」
「何年一緒にいると思ってんのよ」
呆れたように溜息をつくと、ナタリーは時計を見た。あと5分ほどで退勤時刻である。
「ま、あなたが退勤後にどう動こうと、私は知らないけどね」
これは突き放しているように聞こえるが、そうではない。横で聞いているブルーもその事はよくわかっていた。ナタリーはすでに帰る支度を整え始めている。
「何かあれば、オハラ警視監から指令が来ると思ってたけど、今日のところは何もなさそうね」
「指令がないってことは、帰れって事だな」
13歳少年刑事は、帰りたいオーラを一切隠すつもりがない。いつものように、ナタリーとブルーが帰宅する態勢を整えた、その時だった。
「!」
突如、ほとんど鳴らない電話のベルが鳴った。ナタリーは神妙な顔で、ブルーは露骨に嫌そうな顔で、アーネットが受話器を取る様子を見ていた。
「こちら魔法捜査課です」
『私だ』
その独特の低い声は、彼らの直属の上官にあたるオハラ警視監だった。
『事件の事は当然すでに知っているな』
「はい」
アーネットは手短に答える。警視監は続けた。
『こちらも慌ただしいので簡潔に伝える。君達はまだ動くな。とりあえず本日はこのまま定時で上がっていい』
「…そうですか」
『もちろん、退勤後に君がどこに足を運ぼうが、私の関知するところではないがね』
ナタリーとまったく同じ事を警視監から言われ、アーネットは声に出さず苦笑した。警視監もまた、アーネット・レッドフィールドという刑事をよく知っているのだ。
『何があるか、まだわからない。しかし、国会議員が数か月の間に二度も狙撃されるというのは、大きな問題だ。君達の任務は、何かあった時にすぐに招集に応じられるよう、待機する事だと理解してほしい』
「了解しました」
『よろしい。明日は全員間違いなく、いつも通りに出勤してくれたまえ』
それだけ言うと、オハラ警視監は通話を切った。
「という事なので、帰っていいそうだ」
そう言いながらアーネットもまた、ベストを着込んでオフィスを後にする支度を整え始めた。どこに向かうつもりか、聞くまでもない。ナタリーとブルーは、肩をすくめてオフィスのドアに向かった。
「それじゃ、私たちは帰るわよ」
「じゃあね、アーネット」
ああ、とアーネットは二人に手を軽く振ると、その数分後にオフィスをひとり後にした。
まだ夕方でも日がやや高いリンドン市内は、一見すると何事もないように見える。しかし、街のそこかしこに銃を下げた警官が立っており、明らかに事件への対応である事がわかった。
「警官は大変だなあ」
「現場の彼らが一番、肉体的にはきついわね」
「…今回の件、僕らの案件だと思う?」
さっきと同じ事をブルーは繰り返し訊ねた。ナタリーは何とも言えない、といった表情である。
「フタを開けてみないうちは、わからないわね」
全くもってその通りなので、ブルーは返しようがなかった。通りでは、号外を手にしてヒソヒソ話し込む、仕事帰りの人々の姿が散見される。貴族院の議員が殺害されたというのは大事件である。捜査する側も、ひときわ緊張が高まる。ブルーは、もし自分達の手に余る事件だったらどうしよう、という本音をどうにか押し殺しながら、その日はとりあえずナタリーとともに帰路についたのだった。




