後編
呆然としていたら、誰かが部屋に近づいてくる音が聞こえてきた。ノックもなしに部屋に入ってきたのは、メイアス様だ。もうすでに服装は、夜衣から普段着に変わっている。
私を見下ろして、ニコリと嬉しそうに笑みを向ける。
「体は大丈夫か?」
そう気遣いながら、私の隣に腰を下ろした。
「はい、少し痛みますが……」
恥ずかしそうに顔を伏せて答えた。
いかにも私は処女を喪失したフリをしていた。
彼の目をまっすぐに見られないのも、恥ずかしいからではなく、単に気まずいからだ。慣れない嘘に冷や汗がダラダラと流れそうだった。
そんな私の背中にメイアス様が腕を回して抱きしめてきた。驚いて彼を見上げると、彼は照れくさそうに笑っていた。
「その、昨日はとても素晴らしい夜だった。すまない。後で使用人に怒られてしまったよ。愛も囁きもせず、ことに及んだのはよろしくなかったと。あなたをいざ目の前にしたら、余裕がなくなってしまったんだ」
「え?」
思わず耳を疑った。
「あの、使用人に怒られたって、昨日の寝所での出来事は使用人に聞かれていたってことですか?」
つまり、筒抜け?
「そうだよ。私の身に何か起きたら大変だからね。私が無防備なときは特に。万が一に備えて控えているんだ」
確かにメイアス様は、このマトルヘル侯爵家の当主だ。この屋敷で一番重要人物だ。
で、でも……。
「は、恥ずかしいですわ。あのときの声を聞かれていたなんて」
そうと知らずに、はしたない言葉を口にしていた気がする。
羞恥心のあまり、のたうち回りたくなる。
「あなたもすぐに慣れるよ。みな、有能だから」
メイアス様は全然気にしてなさそうだ。これは残念ながら、お願いしても改善できない話かもしれない。
「それよりも、昨日のあなたは、まるで女神が降臨したように美しかった。あまりにも魅力的だったから、この機会を逃したら聖女のあなたを一生抱くことはできないと焦って我を失い、まるで一匹の獣のようにあなたを求めてしまった」
メイアスはそう言いながら、私の額に軽く口づけを落とした。
それだけでドキッと胸が高鳴ってしまう。だって、レイと同じ姿かたちをしているから。
「初めて出会ったときから惹かれていたんだ、ルミネラ。あなたは私の女神だ」
初めて出会ったときから?
そんな風に彼から思われていたなんて知らなかった。彼は私に好意を持ってくれていたんだ。
だから、ちょっと強引だったけど、聖女だと知りながら私を求めたのね。
でも、私はメイアス様のことを何とも思っていなかったけど、彼に抱かれたあとも癒しの力を失わなかった。その理由がよく分からない。
愛のない交わりだと、聖女は加護を失ってしまう。それが昔から伝えられている教えだ。
お互いに愛がないといけないと思っていた。
もしかして、一方通行な想いでも大丈夫なの?
いいえ、そんなことはないはず。
じゃあ、なぜ私の力は失われなかったの?
まさか、彼がレイに似ていたから?
それとも――。
あぁでも、色々考えても、今はまだ推測に過ぎない。
そう、大事なのは、客観的に見て、聖女が抱かれて癒しの力を失っていない状況を納得させることだ。
なぜなら、他の聖女の貞操を守れなくなるから。
どうしようかと対応を迷っていたけど、これで決心できた。
そうよ。彼が私を好きなら、私も彼のことを好きならいいじゃない!
私とメイアス様は、実は両想いだったのよ。
そうと決まれば、私がこれから言うべき台詞は決まった。
「わ、私もメイアス様をお慕いしておりました。あの国王に殺されそうになったとき、私を助けてくださった方ですから」
私は恥ずかしそうにメイアス様の目を見つめた。すると、彼はとても嬉しそうに破顔した。すぐに私を両腕で抱きしめてくれる。
「そうか、だからか。昨晩、あんな不思議なことがあったのか」
またメイアス様がとんでもないことを言い出した気がする。
「どういうことですか?」
「昨日の交わりでは、癒しの力を失くさなかっただろう? 私は見たんだ」
彼から確信しきった発言をされて、私は言葉を失う。
メイアス様は真剣な目で私を見つめていた。彼は冗談など口にしていないと表情から伝えていた。
「……何をご覧になったんですか?」
不安に思いながら尋ねたが、逆にメイアス様は照れくさそうに頬を赤らめた気がした。
「その、夜の営みの最中にあなたの体がほのかに光った気がしたんだ。あなたも喜んでいると思って嬉しかった」
「……まぁ!」
自分の体が光っていたのも驚きだけど、今度は演技ではなく本気で恥ずかしくなる。
「その、とても素敵な夜でしたわ」
メイアス様があまりにもレイに似ていたから、まるで彼に抱かれているみたいだった。久しぶりだったけど、優しくしてくれたおかげで、痛くもなく、彼に対して嫌悪感もなかった。
でも、メイアス様はレイではないのに――。
一抹の罪悪感が胸の奥をかすめていく。
私が心の底では偽っているのを知らず、彼はますます愛おしそうにぎゅっと抱きしめてくれる。
メイアス様だけではなく、神様までも私は騙しているのかもしれない。
でも、他の聖女を守るためにも、私は愛で結ばれた男女を演じるつもりだ。
私は仮面を貼り付けてメイアス様を見つめる。
「でも、私は心配なんです」
私が顔色を曇らせると、彼はすぐに異変に気が付いてくれた。
「どうしたんだい? 愛しい妻よ」
「私たちが愛し合っていることは私たち自身がよく理解していますが、他の方はどうでしょうか」
「どういうことだ?」
メイアス様が怪訝な表情をする。
「愛し合っているおかげで、あなたに処女を捧げても私は癒しの力を失いませんでした。でも、出会ったばかりの私たちが愛し合っていると、他の人には信じづらいと思うのです。私が大丈夫だったせいで、他の聖女が貞操を狙われでもしたら恐ろしくて」
私はいかにも不安で仕方がないといった顔をしていた。
「だから、お願いがあるんです。外では白い結婚を続けているフリをしてほしいのです」
メイアス様は考え込むように私を見つめて、やがて安心させるように微笑んだ。
「ああ、分かったとも。あなたがそう願うなら、しばらくはそうしよう。私も都合がいいからな。ジン、いるか」
「はっ、ここに」
メイアス様が誰か呼んだ瞬間、打てば響くような速さで知らない男の声が返ってきた。驚いて振り返れば、寝台の脇に気配なく男が跪いて控えていた。闇に溶け込むような黒髪だ。
「私とルミネラとの仲は清いままだと情報を調整してほしい」
「分かりました」
ジンと呼ばれた男は返事をすると、あっという間に部屋から姿を消した。
メイアス様は私を安心させるように見つめる。
「大丈夫。彼らは優秀だから、希望どおりの結果をもたらしてくれるだろう」
「ありがとうございます、メイアス様」
彼も納得してくれて一安心――と思っていた。
「でも、夜には仕事をしっかりしてもらうから」
そう言って彼はほくそ笑んでいる。これは一体どういうこと? 嫌な予感がするのは気のせいかしら。
その答えは、翌日の夜に分かった。
私の部屋は彼と続き部屋となっており、先触れや使用人を介することなく、彼が間仕切り扉から入ってきたのだ。
「メ、メイアス様?」
いきなり扉が開いて彼が現れてびっくりしたら、彼は口元に人差し指を立てて沈黙を求めてくる。
「静かに。噂になって困るのは、あなただよ」
それなら彼が来なければいいと思うが、そんなことを言える立場になかった。
彼は昨日と同じように薄い夜衣姿だ。鍛えられて引き締まった身体が間近に迫り、否応なしに緊張が高まる。
「夜になるまで待ち遠しかった」
メイアス様は切なげな声で呟き、私を逞しい両腕でぎゅっと抱きしめてくる。彼が本心から私を望んでいるように感じて、嫌な気分ではなかった。声までレイに似ている気がしたから。
顎を持ち上げられ、上向きにされたら、彼から口づけを与えられる。
寝台に倒れ込むように横たえられ、今日も彼に情熱的に求められた。
昼は汚れを知らぬ清らかな女を装って人々を癒し、一方で夜はメイアス様に妻として何度も体を求められていた。周りにバレないように寝台では言葉は少ない。
癒しの力を失っていないので、白い結婚であることを外では誰にも疑われもしなかった。
でも、この生活を願ったのは私なのに、エミリーヌ様がメイアス様の腕に手を添えて城内を歩いている姿を目撃したとき、胸に刺すような痛みが襲っていた。
「あら、ルミネラ様。これから私たち茶会に一緒に行くのよ」
側妃は勝ち誇ったような顔で私を嘲笑っていた。
「行ってらっしゃいませ」
これ以外に何を返せただろう。私は立ち去る夫たちを見送ったあと、いつもどおりに神殿に奉公しに行った。
その後も、二人が城の中で一緒にいる姿をたびたび見かけた。
「あなたって本当に太々しいわね」
側妃のエミリーヌ様に呼ばれて部屋に行けば、挨拶もなしに文句を言われた。
結婚式から一ヶ月も経つが、彼女はいまだにシルハーン国に戻らずにメイアス様のお言葉に甘えて城の一室に滞在している。
「側妃殿下、ご機嫌麗しゅう存じます」
私がドレスの裾をつまみ、丁寧に挨拶をすれば、側妃は顔を不機嫌そうに歪めた。
彼女は茶会セットの椅子に腰掛けながら、私を見上げていた。
「挨拶は結構よ! それよりも、あなたがいまだに正妻の部屋を使っているのはどういうことかしら?」
「何か問題がありましたか?」
私が尋ねると、側妃は自分の口からは言いたくないのか、侍女に話すように目配せした。
ちなみに席を勧められないので、私は立ったままだ。
「ルミネラ様は聖女なので、侯爵様とは白い結婚でございましょう。いわばお飾りの妻なので、エミリーヌ殿下に本妻用の部屋をお譲りしてはいかがでしょうか。結婚後、侯爵様がエスコートなさるのも殿下です。一年後に正式に妻となるとはいえ、現在も実質的な妻は殿下であることは明白でございます」
たしかに領地内の貴族とのお茶会や集まりには、メイアス様は側妃殿下をほとんど伴って出席している。まるで伴侶のように。
「ですが、それは私が判断できることではないです」
元々、私と彼との結婚は政略だから。
でも、側妃はその答えが面白くなかったようだ。射殺されそうな勢いで睨まれた。
「彼が本当に求めているのは、私なのよ? これを見なさい」
側妃は手を持ち上げ、私に見えるように晒す。彼女は立派な宝石がはめられた指輪を身につけていた。
「これはマトルヘル卿からいただいたものよ。彼は私に一年後がとても楽しみだとおっしゃってくれたのよ。どういう意味か、もちろん分かるわよね?」
側妃は勝ち誇ったように笑った。その表情は彼女が嘘をついているようには見えない。
メイアス様は本気で一年後には私を捨ててエミリーヌ様を妻に迎えるのだろうか。
想像しただけで胸の奥を掻きむしられるような痛みが走る。
愛していると言われたけど、言葉だけならなんとでも言える。
彼は城にいるとき、必ず私の部屋を訪れ、私を激しく求めてくる。
体だけが目的なのかと不安になるときもあった。
でも、私は癒しの力をまだ失っていない。
だから、私を傷つける彼女の言葉よりも、今まで私を守ってくれた神の加護と彼の愛を信じたい。
「私はメイアス様を信じてます」
反論するように堂々と答えると、側妃は見るからに悔しそうに顔を歪める。
その直後、彼女は乱暴にお茶のカップに手を取ると、私に向かって中身をぶちまけた。
立っていたから咄嗟に後ろに逃げられた。距離ができたおかげで、ドレスのスカートがお茶で汚れただけで熱くはなかった。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってお茶をこぼしてしまいましたわ。聖女様なら火傷をなさってもすぐに治せるから大丈夫ですよね?」
謝意など少しもこもってない嫌味ったらしい口調だった。
「ええ、大丈夫です。でも、このような汚れた格好で殿下とお会いし続けるのも申し訳ないので失礼いたします」
退室の口実を得られたと思えば、苦ではなかった。ただ、メイアス様にいただいたドレスだったので、シミにならなければと心配だった。
「ええ、下がって結構よ」
私は礼をしてから踵を返した。
「ふん、覚えてなさいよ」
部屋を出る私の背中に捨て台詞を投げつけられる。
いつものことだと気にもしなくなったけど、まさかこのあとに側妃が侍女と恐ろしい話をしていたなんて、このときは思いもしなかった。
「殿下、侯爵様の助言どおりに準備は整いました。あとは最後の一人の宣誓書さえ揃えば、殿下がこのサルサンに正式に来られた際に忠実な家臣となりましょう」
「ウフフ、我慢の甲斐があったわ。マトルヘル卿が味方なら怖いものはないもの。あの女にやっと復讐できるわ」
数日後。
今日は神殿で奉公の予定だったので、城の入り口で馬車に乗ろうとしたとき、ちょうど来客とすれ違った。
その人は旧サルサン国の貴族だ。名前は思い出せない。敗戦したあと、降伏はしたが領地をかなり減らされたはずだ。
「どうしましたか?」
「こちらにいらっしゃるエミリーヌ王女殿下にお会いしに来たのだ。一年後に捨てられる夫人が私に何の御用だ? もしかして私の妾でも狙っているのか?」
彼は好色な顔つきで品定めするように私をじろじろと見ていた。
「いいえ」
私がはっきりと拒否すると、彼は鼻息を荒くして、不機嫌そうに去っていった。
「行きましょう」
護衛に声をかけると、彼は用意した馬車に私を案内して乗車を手伝ってくれる。
彼はメイアス様の計らいで私に付き添っている。
神殿にいつものルートで進んでいると、途中の路上で他の馬車が立ち塞がるように止まっていた。脇を通り抜けるには道が細くて無理だったようで、私の馬車まで止まる羽目になった。
「どうしたのですか?」
護衛に声を掛ける。
「どうやら脱輪したようで、修理しているようです。迂回されますか?」
「いいえ、人手があったほうがいいから手伝いましょう。もし領主の馬車が困っている人を見捨てたと悪評が立ったらメイアス様にご迷惑がかかるかもしれないわ」
馬車には侯爵家の紋章が掲げられている。
私の返答に護衛は驚いたように目を瞬き、嬉しそうに微笑んだ。
「奥様はご主人様のことを大事に思われているのですね。美しいだけではなく、お優しい奥様を当家にお迎えできて、仕える身として誇らしいです」
「まぁ……ありがとう」
好意的に受け止められてありがたいはずなのに、護衛の称賛を素直に受け取れなかった。胸の奥がじんわりと痛む。
メイアス様と夜を過ごすたびに彼の優しさに触れ、どんどん彼に惹かれていた。
でも、それはレイを裏切ることだ。彼との思い出が過去になっていくほど、彼に対して申し訳なくなっていく。
二人への想いに私自身が押し潰されそうになる。
メイアス様がレイだったらどんなに良かったことか。
「奥様は中でお待ちください。私どもがやりますので」
「では、よろしくお願いします」
私も腰を上げて手伝おうとしていたけど、察した護衛に止められた。
馬車の中で一人きりとなった。
すると、突然馬車の扉がノックされた。
「聖女様、お助けください」
鍵を開けるなと言われていたが、助けを求めてきた国民を無下にはできない。
様子を窺うために扉を少し開けると、見知らぬ男が手を割り込ませて無理やりこじ開けて入り込んできた。
何をするの。そう叫ぼうとしたら、男は素早い動きで私の口元を何か布で押さえつける。
叫ぶ間もなかった。鳩尾に当身をくらった途端に意識が遠ざかり、私はあっさりと気を失った。
寒気がして目が覚めた。寝て起きたら、見知らぬ場所にいた。
どこかの納屋のようで、古びた道具や箱が部屋の隅に置かれている。
床に寝かされていた。両手を後ろで縛られた状態で。
身の危険を感じて、血の気が引いてくる。
「よう、目覚めたか」
知らない声が聞こえたので、慌てて視線を向ける。最後に見た男ともう一人別の男が立っていた。
「あんたには恨みはないが、依頼されてね。思ったより目覚めが遅くて焦ったが、ちょうどよかった」
二人とも、いやらしい目つきで、舐めまわすように私の体をじっくりと見下ろしている。
生理的な嫌悪感が襲ってきた。
「依頼主って誰なの?」
誰かが自分をひどく恨んでいる。その事実はとても私を苦しめる。
「言えるわけないだろう? 時間稼ぎか? ここが見つかるわけないって。まぁ、抵抗しなきゃ気持ちよくさせてやってもいいぜ」
下卑た笑いを浮かべながら男たちが近寄ってくる。
「いや、来ないで!」
恐怖のあまりに目を瞑って思いっきり叫んだときだ。
「うわ! なんだこれは!」
「やめろ! くるな!」
男たちが半狂乱な様子で慌てだした。
何が起こったのかと見れば、小さな生き物が彼らの体に噛みついていた。
それはネズミだ。何匹ものネズミが足元をものすごい勢いで走り回り、男たちに飛びかかっている。
噛まれた男たちは、私を襲うどころではなかった。
私はこの隙に立ち上がり、出入り口に向かって走り出す。引き戸だったので、後ろを向いて取っ手に触れ、器用に戸を開けて建物から脱出できた。
途端にけたたましい鳴き声が頭上から聞こえた。
空を黒く覆い尽くすほどのカラスが、空で舞うように飛んでいた。何羽いるのか分からないくらい大量だ。
異様な光景に唖然としていたら、後ろから男たちがネズミに襲われながらも私を追いかけてくる。
「来ないで!」
私が叫んだとたん、今度はカラスが一斉に急下降してきて男たちに襲い掛かっていた。
男たちの阿鼻叫喚が聞こえるけど、全然同情できなかった。
きっとこれは、神様の加護のおかげだろう。以前も助けてもらったことがあるから、そう思えた。
「奥様!」
声がして振り向けば、侯爵家に仕える人たちが血相を変えて走り寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
ジンだ。メイアス様に仕えている男だ。彼は私に慌てて駆け寄り、両手を拘束していた紐をすぐに切ってくれる。
他にも侯爵家に仕える騎士たちが集合し、男たちを素早く捕獲していた。
「やっぱりここにいらしたんですね」
「どうして分かったの?」
あの男たちの口ぶりは、見つかりっこないとかなり自信を持っていた。だから、これほど早く助けに来てくれるとは思ってもみなかった。
「メイアス様が空にカラスが集まっていると気づいて、そこへ行くように指示されたのです」
「そうだったの……」
私はそれからメイアス様が待つ城に無事に戻ることができた。
「ルミネラ、すまない。私が不甲斐ないばかりにあなたを危険な目に遭わせてしまった」
ぎゅっと抱きしめてくれるメイアス様の変わらぬ愛情のおかげで、私はようやく強張っていた体から力が抜けていくのを感じた。
「ありがとうございます、メイアス様。あなたのおかげで助かったんですよ」
言いながら、目から涙が次から次へと流れていく。
そんな私を落ち着くまで彼はいつまでも優しく抱きしめてくれた。
その日の夜、メイアス様は寝台に腰掛けて私の背中に腕を回しながら事の顛末を教えてくれた。
エミリーヌ側妃はシルハーン国に連行されて、処刑される予定だそうだ。
そう淡々と話す彼は、冷静沈着な為政者らしく見えた。
「彼女が陛下との初夜を拒絶して、訪れた陛下を追い返したところから、彼女の命運は決まっていた。だから陛下は私に対応を任された」
人質同然の敗戦国の王女が逆らえば、殺されるだけではなく、国ごと滅ぼされる恐れがある。自国の民を思えば、エミリーヌ側妃は陛下を受け入れるべきだった。
「では、殿下をずっと城に滞在させたのは」
「裏切者を炙り出すためだったんだ」
元々領地を治めていた旧サルサン国の貴族たちの多くは、降伏してシルハーン国に従うようになっていた。だが、いつ裏切るか分からない。だから、側妃を使って忠誠心を試したそうだ。
「指輪をあげたのも……」
「そうだよ。彼女を油断させるためだ。一年後にはすでに死んでいるから、私の妻になれるはずないのにね」
そう話す彼の声は、他人事のように抑揚がなかった。
もし側妃がサルサンに戻ったとき、領地を元のように保証する代わりに彼女に忠誠を誓うように契約書を用意させたそうだ。
陛下の側妃でありながら、閨を拒否し、元家臣たちと連絡を取り合い、あまつさえ勝手に領地の保証まで行った。
その結果、側妃は元家臣ともども反逆の恐れありとみなされ、捕まった。
回りくどい方法だが、それが無駄に血を流さず、欲深い愚かな貴族たちだけを消せる最良なやり方だったようだ。
「ルミネラ、あなたを襲わせたのも側妃の仕業だった」
ネズミとカラスの大群に襲われた男たちの傷は酷いものだったらしい。目まで突かれて失明していたそうだが、治療と罪の減刑を引き換えに自白を促したところ、あっさり寝返ったそうだ。
側妃の結末は可哀想だが、庇う気にもなれなかった。
死なずに済む選択肢はいくらでもあった。でも、彼女は最初から選ばなかっただけだ。
「あの、どうか護衛たちを咎めないでください。うっかり私が騙されて馬車の扉を開けてしまったのがいけなかったんです」
それだけが気がかりだった。
私が懇願すると、彼は仕方がないといった表情で容認してくれた。
「あなたが気に病むのなら、今回は不問にしよう」
「ありがとうございます」
私は安心して微笑むと、彼の頬に両手を添えて自分から顔を近づける。迷わず彼に口づけをした。
彼から与えてもらうばかりで、私から彼にするのは初めてだった。
彼も同じように気づいたのだろう。驚いたように一瞬固まって私を見ていた。
私も同じように息をこらして真剣に見つめていた。
(レイ)
声には出さずに唇の動きだけで、言葉を相手に伝える。
気づいた彼の瞼がピクリと動いた。でも何も言わず、彼は自分の唇に人差し指を立てて黙秘を促す。
困ったような嬉しいような、くしゃりと笑った顔は、貴族メイアス様ではなく、私がよく知るレイのものだった。
やっぱりそうだったのね。感激のあまりに胸がいっぱいになる。
思わず彼に抱きついていた。
「愛しているわ」
言いながら涙が浮かんでくる。
本当は色々と聞きたいことはあった。
でも、侯爵家に仕えている護衛たちが耳をそばだてて盗み聞きされていても、問題のない言葉を選ぶしかなかった。
きっと彼は自分がレイだと名乗れないのだと思う。それが孤児のレイからメイアス様になった彼に課せられた条件なのだと察していた。
もし言えたなら、私と再会したときに言えたはずだから。
どうして彼が侯爵家の当主になったのか分からない。でも、きっと恐らく、彼の珍しいグレーブルーの瞳は、本物の侯爵家当主と同じだったのだろう。もしかしたら顔も似ていたのかもしれない。
だから、身代わりに選ばれた。
それに気づけたのは、あのカラスの件だ。
本当の侯爵様が知るわけなかった。カラスが私を守ってくれるなんて、そんな事実を。
愛の女神の加護は、癒しの力だけ。私の貞操が危ないとき、動物が守ってくれるのは、恐らく別の神様のご加護だ。
でも、その事実を知っていたのは、レイだけだった。
私が処女じゃないと知っていてシーツに偽装できたのも、レイ本人しかいない。
それから私が彼に抱かれて力を失わなかったのも、実はレイ本人だったとしたら、当然の結果だ。
メイアス様がレイだという証拠が全然なかったから、今まで分からなかったけど、カラスの件ですべてが納得できた。
でも、私と再会するために彼が払った犠牲は、きっと想像を絶するほど大変なものだったに違いない。
そこまで私のために尽力してくれた彼の想いにひたすら胸が震えていた。
「ルミネラ、私も愛しているよ」
そう言って彼は今日も私を愛しげに抱きしめてくれる。
この幸せがいつまでも続いてほしい。
そう強く願わずにはいられなかった。
<完>
お読みいただき、ありがとうございました!