六
七-六
次郎が手箱を取りに帰ろうとすると、磯八が袖を引いて止める。
「そんなら地上に帰ったら、すぐ呑むように言うじゃろう。どうにもならん時に開けろは、変ではないですか、もう一日待ってみましょう。明日は、三十のままかもしれんですし五十、いや六十になってからでも呑めばええ。早まって呑んだ薬が毒なら、大変じゃ。」
磯八の意見に一理ある。
黙ってうなずき、音根の葬儀を手伝うことにした。
夕刻、男女五十人の村の衆が集まって葬儀が執り行われた。
遺体は木の箱に入っていて、村の若い男衆六人が担いで五十人の列を従え、丘を上がって裏島寺に安置した。
作佐の読経が続く中、急造の墓石には、次郎の希望で作佐が“待人成就信女”と墨で大きく書いていた。
埋葬がすんで墓に手を合わせると、脳裏に十八歳の音根の笑顔と心配そうな顔が、交互に現れる。
初夏の長い夕暮れが闇に変わり、寺から海に続く下り坂で提灯の列が、ユラユラ揺れて寂しそうに下る。
その先の海には細い三日月の淡い光を、波が映して点滅する。それは音根の瞳に似た、涼やかな瞬きであった。
「音根。早いうちに、そっち行くかもしれんぞ。」
昼間はあれほど眠かったのに、眠れば老けると考えると、眠れない。
燭台の灯を消した真っ暗な部屋で、空しく天井を見つめ、心細さと不安を抱えながら薄い布団を頭から被った。
「太郎様の故郷が、酷い仕打ちをすると分かったら、龍宮に引き返しますか。」
帰る途中でショウの言った意味が、やっと分かった。
「まだ二十二年しか生きとらんオラを、地上は七十過ぎの爺さんにするんか。」
庭先の小鳥のさえずりで目が覚めた。陽ざしが木々の影を、障子に投影している。
飛び起きて庭の池に顔を映したが、小さな波が立って顔が見えない。自分の姿が映る物はないか探していると、次郎が出てきて縁側に座った。
「残念ですが、やはり年が進んでいますなあ。」
「もう四十過ぎに見えるってか。」
「ええ。頭に白髪が増えて、顔つきも。」
恐れていることが進行している。加齢が止まるという望みは、水泡の如く消え去った。
「次郎さん、こうなったら手箱にすがるしかない。持ってきてくれんか。」
次郎はうなずいて家に入った。出てくるまでの時が長かったのは、預かっていた黒い手箱を渡すべきか迷っていたのだろう。
庭に出て来た次郎は、大事そうに手箱を胸の前で抱えている。浮かない表情で近付き、ゆっくり手箱を差し出した。
「どんな事になっても、運命を受け入れてください。」
「わ、分かっとる、覚悟のうえじゃ。」
受け取った手箱を右脇に抱え、浜の真ん中を目指す。ショウが迎えに来て、海に入った場所だ。
この手箱を開けたらどうなるか……。乙姫を信じたい期待と、苦しい死が頭の中で激しく戦う。
---何もせんと年だけとって、死にとうない。これが最後の望みじゃ。母っちゃん、音根、梓、どうかオラを守ってくれ。
砕けそうになる重い足と腰に、気合いを入れて一歩ずつ進み、浜の真ん中まで来た。
もう時は残されていないと、勇気を振り絞って海の方に向かう。波打ち際で腰を下ろし、手箱を前に置く。
「黒い手箱を開ける時が来たぞ、乙姫。オラはあんたの言うた、役立つ物と言う言葉を信じて開けるじゃ。」
固く縛っていた太い十文字の縄を、小刀で切った。
手箱から離れ落ちた縄が、打ち寄せた海水と砂にまみれて揺れる。潮が少し高くなって、波が時たま膝まで伸び、着物のすそを濡らす。
グズグズするほど、心細さと更に加齢していく怖さが、長引くだけだ。潔く運命を受け入れるべきと意を決し、声を出して自分に命令を下す。
「太郎、ふたを開けろ。」
心臓がドンドンと激しく鼓動し、蓋を挟んだ左右の手が、小刻みに震える。
---やっぱり開けるのは怖い。いや、ここで止めたら何も解決せん。太郎、開けろ、もう何も考えるな。
歯を食いしばり、目は海を睨んで、両手に力を込める。
「乙姫よ。ダマされたとはいえ海底での暮らしは楽しかったじゃ。オラは誰も体験できん世界を見ることができたし、ゼクスにも会うた。どんな結果になっても誰も恨まん。」
蓋が手箱の胴から離れた。その瞬間、おびただしい白い煙が沸き出して、たちまち周辺を包み込んでしまった。
「うわ、何じゃこの煙は。」
真っ白で何も見えない。早く薬を呑まねばと、手探りで手を突っ込んだが、手箱には何も入っていない。指を広げて隅まで探すが、やっぱり中は空だ。
頭の中で、女の澄んだ声がした。
「太郎様、とうとう黒い手箱をお開けになりましたね。」
乙姫の声だ。丘や浜から問いかけても、まったく返事がなかったのに、乙姫の方から声をかけてきた。
「乙姫か、何で煙が出てきたじゃ。早う煙をどけて、薬をくれ。」
すがる気持ちで、海の方に両手を伸ばす。
「もともと手箱に、薬は入っておりません。」
「何でじゃ、困ったら開けろと言うたんは、ウソじゃったんか。」




