七
六-七
いつも身辺にいる随臣はおらず、どの階にも人影がない。人がいない屋敷の天守は、一幅の絵巻のような景色だ。
無言で一階まで下りた。一太夫と二太夫が階段をはさんで座り、正面玄関に続く広間には側近の侍が両側に三人ずつ、硬い表情で並んで立っている。
百人いても余裕のある広間に、六人の侍と一太夫、二太夫、乙姫だけ。他の人達は見送りのために、前庭へ集まっているのか。
「お別れです、太郎様。」
乙姫が広間の卓に並んでいる赤と黒二つの箱から、赤い箱を手に取った。
「この赤い手箱は、地上の皆様へのお土産です。どうぞ想い出話を交えながら、お分けいただきとうございます。」
「これはこれは、かたじけない。」
頭を下げて受け取ると、一尺角ほどの手箱がずっしりと重い。
乙姫はもうひとつの黒い箱も差し出した。黒い手箱は軽いが、太い紐で十字に結び止められている。
「この黒い手箱は、私から太郎様への贈り物ですが、普段は決して開けてはなりませぬ。どうにもならなくなった時に一回だけ、役立つ物が入っております。」
奇妙な土産だと思ったが黙って受け取り、意識して笑顔を作ったが、乙姫の表情は硬い。
一太夫が玄関の方へ手で合図したので、玄関に向かう。手箱を両脇に抱え、廊に出て振り返り頭を下げた。
乙姫はその場所から動いておらず、手を振るでもなく見送っている。
---玄関まで、来てくれると思うちょったが。
この廊を乙姫と並んで歩きたかった。背に乙姫の視線を感じながら歩く廊が、ひどく長く感じる。
この屋敷の中も見納めだと、天井、壁、足許を見回しながらゆっくり歩く。
来た時は、めっぽう派手に輝いていた廊の光彩が、弱々しくなっている。
「この位でええ。これでも立派すぎるが。」
独り言をつぶやきながら、一太夫の丸まった背に付いて歩く。
五日前に戸惑いながら入った玄関に戻った。あの日は大勢の子供達や侍に迎えられたが、今日は誰一人いない。
そっと後ろを振り向いたが、すでに乙姫の姿は見えない。もう一度引き返し、改めて礼を言いたい衝動に駆られた。これが未練というものか。
「太郎殿、前を向いて出ましょうぞ。正門の外でショウがお待ちしております。」
一太夫が振り向きもせず、そぞろな気持ちを砕くように、強い口調で声をかける。帰ると決めたのだ、名残り惜しそうにするのは男らしくない。手箱を抱え直し、大股で誰もいない玄関を出た。
国の人たちが玄関の外に集まっていて、口々に別れの言葉を表すのだろうか。中には「帰らないで。」と駆け寄り、泣いてすがる子供達もいるだろう。
乙姫をはじめとする屋敷の人達は、歓迎門あたりに並んで見送ってくれるのか。
乙姫と加奈の涙を見て「さようなら。」とは言いにくい。どんな言葉をかけたら良いのだろう。
光が噴き出す芝草の中庭に出ると、右手方向にある松の木の下に、加奈がポツンと立っている。
駆け足で近付くと加奈は驚いたように、奥の植え込みに走り込んだ。てっきり駆け寄って泣き、すがり付くと思ったのに。
「どうしたんじゃ、加奈さん。」
慌てて追いかけ、走り込んだ植え込みを覗いたが、もう加奈の姿は見えない。
「変じゃな、確かにここに。」
加奈を捜していると、一太夫が走って来て先を急がせる。
「加奈殿は辛いのです、どうか捜さないでください。どこかで太郎殿を見ておりますから。」
「分かった。」
加奈と名残りを惜しんでいたら、門の外で待っているショウを待たせるだけだ。ここは胸を張って屋敷を出ようと、格子造りの正門へ向かう。足元の芝草から噴き出す光が、全身に絡み付く。
---ああ、もう正門か。
振り向いて玄関を見るが、乙姫はいない。そればかりか、どこにも人の気配がないので、一抹の寂しさが込み上げる。
見上げるばかりの正門が左右に開いて、石畳みと松並木が目に飛び込む。
だがそこにも、誰も見当らない。期待は無残に飛び散って消えた。
唯一、大海亀のショウだけが、長い首を伸ばして待っていた。
「ショウさん、久しぶりじゃ。」
その首に寄り掛かる。五日ぶりとは思えない懐かしさで、思わず涙が溢れるが、両脇に手箱を抱えているので拭けない。
「お元気そうで、安心しました。さあ、お乗りください。太郎様が望まれる地上へ、お送りいたします。」
---地上に帰れるんじゃ。
ショウの甲羅にまたがり、外庭を見渡してみる。正門を出た所に、一太夫と二太夫が並んで立っていたが、農夫や職人の姿はない。
海底に招待された客人が、五日も滞在したのだ。
収穫祈祷に参加したり、人々と宴席を共にしたり、さらに深海ザメと戦って国を救った。
その客人が屋敷を発つというのに、これは一体どうしたことか。
「では出発いたします。しっかり座ってください。」
ショウが屋敷を背にすると、石畳みの上を滑るようにゆっくり進み始めた。
この美しい国との別れが、こんなにも空しいとは想像すら、できなかった。もう純白の歓迎門だ。だが乙姫や随臣の姿はない。
この国の作法かもしれないが、寂しい別れに胸が痛くなった。




