六
一-六
「勘次、今が大事じゃ。音を立てんよう漕いでくれ。」
「分かっとるわい。もう一息じゃ。」
背後から怪物が飛び出してくる気配を感じては、身の毛がよだつ。浜に向かって大声で叫びたい衝動を懸命に抑える。
じわり、じわり近付く浜を、目の奥が痛くなるほど強く見つめる。
---早く、早く着いてくれぇ。
まだ三丁ほど手前だが、誰かがこの舟に気付いたようだ。
にわかに浜の雰囲気が変わり、松明が一ケ所に集まり始めた。もう浜まで手の届くばかりの距離、数人がバシャバシャと海に入って来た。
「ああ、無事に戻れたんじゃ。」
両手を挙げて、浜の人々に合図をしようと立ち上がった瞬間、今まで張り詰めていた気力が、夜空に吸い込まれるようにフワッと抜け、目の前が真っ暗になった。
突然、闇の中から怪物の顔が飛び出した。金色の眼光と、カッと開いた大きな赤い口が頭上に迫る。
「ぐわー、もう駄目じゃぁ。」
ハッと我にかえった。辺りを見渡すと、そこは舟の上ではなく家の中のようだ。目の前に棒立ちになっている母がいる。
「ここはどこじゃ、天国か。」
「いいや、勘次の家じゃ。」
怪物に襲われた夢を見て、跳ね起きたのだ……。それにしても、よく寝ていたのだろう眠気はない。母を見て、辺りを見回して、生きていることを確信した。
傍らの囲炉裏には、すでに消えた松明が三本立っている。寝ている間に松明を焚いて温めてくれたのだろう、あの海の寒さはもうない。
「母ちゃん、オラと勘次は助かったんじゃな。そんで、鯛はどうなったんか。」
「ちゃんと表島に出せるよう用意した。お前ら二人がここで寝ちょる間に、皆で手分けしてやっといたじゃ。一晩で百もの鯛をよう釣ったわさ、勘次はんもご苦労じゃったなあ。」
おりんが嬉しそうに、そして誇らし気な顔で、舟が浜に着いた後の出来事も話し始めた。
浜に着くなり舟の上で倒れた二人を、迎えの男衆が舟から降ろし、無事を確認し、勘次の家に運んだ。
赤く腫れ上がった両手足と鼻や目の周りを、湯で濡らした布で温め、ぐっしょり濡れた魚衣を替えた。
そして冷え切った身体を温めるために、囲炉裏に松明を三本立てて火を点け、横に寝かせてくれたそうだ。
舟は村の衆が浜に引き上げた。鯛の入ったトロ箱は、勘次の家と我が家との間にある、洗い場に運び込まれた。二杯の大きな樽には、水がたっぷり張られている。
「さあ、この鯛を水洗いして、献上箱に入れようぞ。」
万作が号令をかけ、皆で一斉に鯛を洗う。能勢右門から預かった桐の献上箱には、大笹の葉が敷き詰められていた。
洗った鯛は丁寧に水を切り、大きさを揃えて十尾ずつ並べる。塩を振り、その上にも大笹の葉をかぶせて蓋をした。
塩と大笹の葉は虫除けと、魚の痛み防止用だ。手際よく作業が進み、百尾の鯛が献上箱に収まった。
片付けを終えて村の衆は一人ふたりと帰り、おりんだけが静かになった作業場に、見張りとして残った。
日の出までには少し時があり、東の山の輪廓が少し見えてきた程度だが、ポツポツと浮かんだ雲が、まだ出ぬ朝日に照らされて白い。良い天気になりそうだ。
海はまだ眠っているように静かだ。おりんはゴザを被り、献上箱にもたれて寝ていた。
「グワーッ。」
太郎の叫び声だったので、驚いて勘次の家へ入って来たと言う訳だ。
鯛も、勘次も自分も無事だった。何より能勢右門の注文どおり、百尾の鯛を釣って帰ったのが嬉しい。
体内から、じわっと温かいものが沸き上がるのは、達成感という喜びか。
「明けまでゆっくりしときゃええよ。じきに出かけにゃいけんけえの。」
おりんは、新しい松明を一本立てて火を点け、鯛の番をすると言って出た。
まだ暗い浜の西方から、弥助が背丈を超える大きな板を担いで歩いて来た。
「あら弥助はん、早いおいでじゃ。」
今日は百尾の鯛を表島の城に納めるが、もし昨日のように海が荒れたら陸伝いで運ばねばならず、午の刻までには間に合わない。
「おりんさん、今日はええ天気になりそうじゃぞ。」
「なら舟で運べるんか、よかったじゃ。何ね、この板。」
弥助は担いでいた板を大事そうに地面に下ろすと、そこには墨で大きく文字が書いてある。
「何て書いてあるんじゃ。わたしゃ字が読めんけえ。」
「これはな“差江殿御用達”と書いてある。これを舟の舳先に立てると、向こうの港に着いて、何かと都合がええ。」
身じたくをして勘次と作業場へ入ると、おりんと話していた弥助が、立ち上がって声をかけてきた。
「おう太郎、勘次、よう頑張ってくれたのう。それに元気そうで何よりじゃ。」
すでに荷出し準備が整っている。そこへ万作が大八車を引いて来た。漁師仲間も作業場に集まり、おりんが茶を配る。
「夕べは怪物が出て、暴れんで良かったのう。」
夜遅くまで作業をしたと聞いたが、どの顔も疲れた様子を見せず、晴れ晴れとしている。