八
五-八
「そんな部屋があるんか、オラは春が好きじゃ。」
「承知しました。後ほど春の間へ案内いたします。」
漬け物に似た歯ごたえのよい海藻料理と、赤い桃に似た果物を頬張りながら、ジャクとの格闘話で盛り上がった。
海底に来て初めて役に立ったことで、心地よい満足感が全身を包む。
「あの賢いジャクを懲らしめたのは、ご立派であった。太郎殿がいる限り、サメは二度とこの国を襲わないでしょう。」
懲らしめた……。そうか、やはりジャクは槍や支柱を外し、逃げ去ったのか。
「一太夫さんも、加奈さんも勇敢じゃったで、オラも助かった。こちらこそ礼を言う。」
二太夫は済ませた膳を抱え、扉に消えた。それを待って一太夫が立ち上がる。これから行く春の間について聞いても、ニヤニヤするだけだ。
もう痩せこけた身体は普通に戻っている。
中庭に出ると、農夫らしい若い男女が駆け寄って来た。
「太郎様、昨日私たちはタッピ畑の近くにいた者です。サメに攻撃されて、もう駄目かとあきらめていましたが、お陰さまで無事でした。」
「地面に伏せたんか。」
「そうです。太郎様のお声を聞き、サメから逃れることができました。」
二人は何度も頭を下げる。照れていると、一太夫が笑顔で代弁してくれた。
「それは良かったですな。もう恐ろしいサメは襲って来ないでしょう。太郎殿がゼクスに代わる、この国の救世主です。」
その場の冗談とは思うが、亡きゼクスに代わって、国の治安を守るような言い回しに驚いた。
「一太夫さん、それは言い過ぎじゃで。あと一日で地上に帰るオラは、ゼクスの代わりになれん。」
農夫が誤解しないよう弁解するが、一太夫は涼しい顔で農夫に手を振り、黒い建物に向かって歩き出す。
中庭の横門を出ると、左に黒い建物がある。大きな倉庫のようだ。
「春の間は、あの中にあるんか。」
「左様でございます。きっとお気に召されるでしょう。」
建物の黒い扉の前に立つと、二人を感知したかのように、音もなく内側に開いた。
そっと部屋を覗き込むと、中に草原が広がっている。まるで倉庫の中ではなく、部屋の外だ。
「何じゃこれは……す、すげぇ。」
背を押されて二、三歩踏み込むと、草原の中に立っていた。驚いて振り向くと、後方にも左右にも、草原が果てしなく広(ひろ())がっているではないか。
「え、入口の扉はどこに消えたんじゃ。」
「隠しました。この景色に無粋なものは、似合いませんので。」
足元から遠い地平線まで、色とりどりの花々が緑の葉を覆うかのように咲き競い、甘く心地よい蜜の香りが漂う。立ち並ぶ木々は、立派な枝振りの桜で満開だ。
青く澄んだ空には、白い雲が浮かび、さわやかな風が頬を撫でる。この国の光は地面から沸き出ているが、この草原は空から光が降り注いでいる。
確かに地上と同じだ。時おり桜吹雪が音もなく目の前を通り過ぎる。
「ここが春の間か。まっこと綺麗じゃが、どう見ても部屋の中とは思えん。」
「広く見せているだけです。」
この国で不思議なことや、解せないこと聞いても無駄だ。
素直に楽しむべきだと、両手を広げて甘く爽やかな空気と、久しぶりに空から降り注ぐ光を吸い込む。
遠くの桜の木の下で、幼女が遊んでいるのが見えた。近付くと、その幼女は音根の子供の頃にそっくりだ。
「ん、ここは前に来たことがある。龍と戦うて死にかけた時の、あの天国じゃ。」
---どうして、ここに天国があるんじゃ。
背筋に冷気が走った。
ここから出ようにも、入ってきた扉が消されている。言いしれない不吉な予感が漂う。
---あの時のような一人ぼっちは、絶対にイヤじゃ。
だが離れた場所で、一太夫が花を摘んでいる。
「今度は人間がおる。」
あの寂しかった天国とは様子が違う。気を取り直して幼女に近付くと、幼女は背を向けて走り出した。その先に男がいて、やはり音根の父親そっくりだ。
やはり天国と状況が同じで、再び背中に悪寒が走る。引き返して一太夫にたずねる。
「まさか。ここはゼクスが作った春の間という部屋ですぞ。作り物ですから、他に同じ場所はありません。」
一太夫は右手を振りながら、笑って否定する。
「いや、同じ景色じゃ。前もあそこに人がおった。人も作り物か。」
「お察しのとおり。この楽園に住む童子です。もっと上へ行けば、どこかの見間違いだったと、お分かりになるでしょう。」
---そんな筈はない。この景色を見間違うわけがない。
だが……あの天国は風も吹かず、虫一匹おらず、物音のない寂しい世界だった。
今は目の前に一太夫がいて話せるし、草原には多くの蝶が舞い、木々から小鳥の囀りも聞こえる。足許の花を摘んでみたが本物だ。
それを問いかけても「本物の作り物です。」などと言うに決まっている。半信半疑で一太夫に付いて、草原を歩く。緩い勾配の丘を上がると、視界が開けた。
二丁ほど先にある大きな桜の木の下で、若い娘と頭巾を被った老人が、ゴザを広げて花見の最中だ。
あれもゼクスの作り物なのか、よく出来ている。




