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真説・うらしまの太郎  作者: 川端 茂
一
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53/86

七

五-七

 大きな岩(いわ)の鏡(かがみ)の前で監視(かんし)していたマイスが、呆(あき)れた声で呟(つぶや)いた。

「こうなることは想定外(そうていがい)でしたから、痛(いた)みの感覚(かんかく)までは、皆(みな)に備(そな)えませんでした。森や草原で暮(く)らす地上の動物(どうぶつ)には、致命傷(ちめいしょう)を防(ふせ)ぐために必要(ひつよう)な感覚(かんかく)なのですが、うかつでした。」

 魚は何(なに)もない海中(かいちゅう)を泳(およ)ぐので、傷(きず)つく機会(きかい)が少ない。また大きな魚に食べられる宿命(しゅくめい)をもって生まれるため、本能(ほんのう)的(てき)に痛(いた)いという感覚(かんかく)を備(そな)えていないのだ。


 加奈も一太夫も人間(にんげん)知識(ちしき)の学習(がくしゅう)で、痛(いた)みの意味(いみ)は学(まな)んでいた。だが実際(じっさい)に傷付(きずつ)き、指摘(してき)されて実感(じっかん)が伴(ともな)わず、どう表現(ひょうげん)してよいのか戸惑(とまど)った。

 サメの襲撃(しゅうげき)で、右手を食(く)い千切(ちぎ)られた中年の男も、太郎が手当(てあて)てを促(うなが)すと「痛(いた)いとは何のことでしょう。」と言って平気(へいき)な顔だった。

「太郎は、気付(きづ)くでしょうか。」

 心配(しんぱい)そうなマイスを見て、隣(となり)で監視(かんし)していたリュウビは笑(わら)った。

「大丈夫(だいじょうぶ)です。二人が上手(うま)く対処(たいしょ)するでしょうから。」


「太郎殿も痛(いた)いでしょう。早く手当てを済(す)ませて帰(かえ)りましょう。」

 互(たが)いに傷口(きずぐち)を布で縛(しば)り合い、地下道を歩いて屋敷(やしき)に向かう。

「ジャクはどうなったじゃろう。」

「この上くらいで、暴(あば)れておりますな。」

「まだ死(し)んどらんか。」

「サメはしぶといですぞ。」

「仲間が助(たす)けに来るじゃろうな。」

「まさか、そんなことはありますまい。」

 一太夫が事(こと)もなげに言うので、その口調(くちょう)があまりにも冷淡(れいたん)に思えた。

「親分(おやぶん)が危(あぶ)ない時は、子分(こぶん)が加勢(かせい)に集(あつ)まるじゃろ。」


「危険(きけん)な場所へ入って行けば、犠牲(ぎせい)になるだけです。ふつうは安全(あんぜん)な場所に避難(ひなん)します。」

 加奈が不思議(ふしぎ)そうに言い、どうも話が噛(か)み合(あ)わない。

「じゃが、さっきは兵(ひょう)藤(どう)が護衛(ごえい)に付いておったし、サメが来たときは、槍(やり)を持って飛(と)び出したじゃ。」

「兵(ひょう)藤(どう)はそういう風(ふう)に作られ……、おっと訓練(くんれん)されておる侍(さむらい)でして。」

 一太夫の言い分は、非常(ひじょう)時(じ)には訓練(くんれん)を受けた侍(さむらい)がいるので、一般人(いっぱんじん)は我(わ)が身(み)を守ることに専念(せんねん)すると言うものだった。


 どうやら海底(かいてい)には、地上と違(ちが)った考えや、生(い)き方(かた)があるようだ。

「そうそう、リュウビサマって何(なん)のことじゃ。」

 ジャクに襲(おそ)われる直前(ちょくぜん)に、意識(いしき)が飛(と)んでいた二人が「リュウビサマ。」と発(はっ)して気付(きづ)いたことを思い出し問(と)うてみた。

「え、何(なん)とおっしゃいました。」

「二人が気を失(うしの)うて、オラが起(お)こした時に、そう叫(さけ)んだ。」

 一太夫(いちだゆう)の目が照(しょう)準(じゅん)を失(うし)ったように、せわしなく泳(およ)ぐ。ジャクに睨(にら)まれて、意識(いしき)は途切(とぎ)れたが、リュウビが気付(きづ)かせてくれた。


「確(たし)かにリュウビサマ、と言うたが。」

「そうですか。拙者(せっしゃ)は気付(きづ)いたばかりでジュンビがマダ……、と言(い)った筈(はず)ですが。そう、心の準備(じゅんび)ですな。それを聞き違(ちが)えられたのでは。」

「そうか。準備(じゅんび)がまだ……、じゃったんか。ハハハ。」

 太郎が素直(すなお)に、聞き違(ちが)いを認(みと)めたので、一太夫は胸を撫(な)で下(お)ろした。

「ジャクは、あの支柱(しちゅう)を外して逃(に)げるんか。」

「多分(たぶん)。でも太郎様のお陰(かげ)で、もう二度と襲(おそ)って来ることはないでしょう。」


 地下道(ちかどう)に集まっていた農夫(のうふ)達(たち)は姿(すがた)を消し、明るい四角(しかく)の空間(くうかん)は、静(しず)けさを取り戻していた。加奈は二人の会話(かいわ)を聞きながら、思いつめた表(ひょう)情(じょう)で、少し離(はな)れた後方(こうほう)を歩いている。


 三日目(みっかめ)の朝になった。寝所(しんしょ)の天蓋(てんがい)の外で、いつもより弾(はず)んだ一太夫の声がした。

「珍(めずら)しくお目覚めですな。お顔を洗(あら)って、これに着替(きが)えてくだされ。朝(ちょう)食(しょく)がご用意(ようい)できております。」

 今朝(けさ)の一太夫は、薄茶(うすちゃ)色(いろ)に白い針子(はりこ)柄(がら)の着流(きなが)しだ。表情はウキウキしている。理由(りゆう)を聞く間(ま)もなく、そそくさと着替(きが)えを置いて立ち去った。

 たたまれている着替(きが)えは、明るい緑(むどり)に紺(こん)の水玉を散(ち)りばめた着流(きなが)しのようだ。また昨日の朝のように痩(や)せこけているのが分かる。ゆううつな気持ちで寝床(ねどこ)を出て、ふらつく足取(あしど)りで風呂場(ふろば)へ入り、水面(すいめん)に顔を映(うつ)して思わず目をつむった。


 見間(みま)違(ちが)えるほど自分の顔が痩(や)せ、頬骨(ほほぼね)と目が異様(いじょう)に飛(と)び出している。手足もげっそり骨(ほね)ばっている。

「朝起きるたびに、身体の養分(ようぶん)が吸(す)い取(と)られとる。何でじゃ。」

 この国に来て空恐(そらおそ)ろしくなる瞬間(しゅんかん)だが、激(はげ)しい空腹(くふく)以外に体調(たいちょう)が悪い訳(わけ)ではない。

 そして朝(ちょう)食(しょく)を摂(と)ると、すぐ元通(もとどお)りになるから不思議(ふしぎ)だ。着替(きが)えて寝床に戻(もど)ると、一太夫と二太夫が寝床(ねどこ)の横(よこ)に食膳(しょくぜん)を並(なら)べ、向い合せに座(すわ)って酒を勧(すす)める。


「さて、昨日はこの国を救(すく)ってくださり、乙姫様をはじめ全(ぜん)国民(こくみん)が感謝(かんしゃ)しております。」

 二太夫が深(ふか)く頭を下げると、喜色(きしょく)満面(まんめん)の一太夫が銚子(ちょうし)を差(さ)し出しながら、二太夫の言葉(ことば)を補(おぎな)う。

「太郎殿の勇敢(ゆうかん)な戦い振(ぶ)りと、すばらしい機転(きてん)と作戦(さくせん)を話しましたら、一人で龍(りゅう)を倒(かお)したのもうなずけると、そりゃもう乙姫様をはじめ、皆(みな)が感服(かんぷく)しておりましたぞ。」


 二太夫は、まだ嬉(うれ)しそうな声で言葉を続(つづ)ける。

「乙姫様は執務(しつむ)を終(お)え次第、地上の楽園(らくえん)でお会いしたいそうです。」

 久しぶりに聞いた地上(ちじょう)という響(ひび)きに、狂喜(きょうき)する。

「地上の楽園(らくえん)って……、地上へ行けるんか。」

「いえ、地上(ちじょう)界(かい)を模(も)した楽園という部屋(へや)です。乙姫様は昨日(きのう)の礼として、その部屋をご満喫(まんきつ)いただきたいと申しておるのです。太郎殿は春夏秋冬、どの季節がお好(この)みですか。」

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