七
五-七
大きな岩の鏡の前で監視していたマイスが、呆れた声で呟いた。
「こうなることは想定外でしたから、痛みの感覚までは、皆に備えませんでした。森や草原で暮らす地上の動物には、致命傷を防ぐために必要な感覚なのですが、うかつでした。」
魚は何もない海中を泳ぐので、傷つく機会が少ない。また大きな魚に食べられる宿命をもって生まれるため、本能的に痛いという感覚を備えていないのだ。
加奈も一太夫も人間知識の学習で、痛みの意味は学んでいた。だが実際に傷付き、指摘されて実感が伴わず、どう表現してよいのか戸惑った。
サメの襲撃で、右手を食い千切られた中年の男も、太郎が手当てを促すと「痛いとは何のことでしょう。」と言って平気な顔だった。
「太郎は、気付くでしょうか。」
心配そうなマイスを見て、隣で監視していたリュウビは笑った。
「大丈夫です。二人が上手く対処するでしょうから。」
「太郎殿も痛いでしょう。早く手当てを済ませて帰りましょう。」
互いに傷口を布で縛り合い、地下道を歩いて屋敷に向かう。
「ジャクはどうなったじゃろう。」
「この上くらいで、暴れておりますな。」
「まだ死んどらんか。」
「サメはしぶといですぞ。」
「仲間が助けに来るじゃろうな。」
「まさか、そんなことはありますまい。」
一太夫が事もなげに言うので、その口調があまりにも冷淡に思えた。
「親分が危ない時は、子分が加勢に集まるじゃろ。」
「危険な場所へ入って行けば、犠牲になるだけです。ふつうは安全な場所に避難します。」
加奈が不思議そうに言い、どうも話が噛み合わない。
「じゃが、さっきは兵藤が護衛に付いておったし、サメが来たときは、槍を持って飛び出したじゃ。」
「兵藤はそういう風に作られ……、おっと訓練されておる侍でして。」
一太夫の言い分は、非常時には訓練を受けた侍がいるので、一般人は我が身を守ることに専念すると言うものだった。
どうやら海底には、地上と違った考えや、生き方があるようだ。
「そうそう、リュウビサマって何のことじゃ。」
ジャクに襲われる直前に、意識が飛んでいた二人が「リュウビサマ。」と発して気付いたことを思い出し問うてみた。
「え、何とおっしゃいました。」
「二人が気を失うて、オラが起こした時に、そう叫んだ。」
一太夫の目が照準を失ったように、せわしなく泳ぐ。ジャクに睨まれて、意識は途切れたが、リュウビが気付かせてくれた。
「確かにリュウビサマ、と言うたが。」
「そうですか。拙者は気付いたばかりでジュンビがマダ……、と言った筈ですが。そう、心の準備ですな。それを聞き違えられたのでは。」
「そうか。準備がまだ……、じゃったんか。ハハハ。」
太郎が素直に、聞き違いを認めたので、一太夫は胸を撫で下ろした。
「ジャクは、あの支柱を外して逃げるんか。」
「多分。でも太郎様のお陰で、もう二度と襲って来ることはないでしょう。」
地下道に集まっていた農夫達は姿を消し、明るい四角の空間は、静けさを取り戻していた。加奈は二人の会話を聞きながら、思いつめた表情で、少し離れた後方を歩いている。
三日目の朝になった。寝所の天蓋の外で、いつもより弾んだ一太夫の声がした。
「珍しくお目覚めですな。お顔を洗って、これに着替えてくだされ。朝食がご用意できております。」
今朝の一太夫は、薄茶色に白い針子柄の着流しだ。表情はウキウキしている。理由を聞く間もなく、そそくさと着替えを置いて立ち去った。
たたまれている着替えは、明るい緑に紺の水玉を散りばめた着流しのようだ。また昨日の朝のように痩せこけているのが分かる。ゆううつな気持ちで寝床を出て、ふらつく足取りで風呂場へ入り、水面に顔を映して思わず目をつむった。
見間違えるほど自分の顔が痩せ、頬骨と目が異様に飛び出している。手足もげっそり骨ばっている。
「朝起きるたびに、身体の養分が吸い取られとる。何でじゃ。」
この国に来て空恐ろしくなる瞬間だが、激しい空腹以外に体調が悪い訳ではない。
そして朝食を摂ると、すぐ元通りになるから不思議だ。着替えて寝床に戻ると、一太夫と二太夫が寝床の横に食膳を並べ、向い合せに座って酒を勧める。
「さて、昨日はこの国を救ってくださり、乙姫様をはじめ全国民が感謝しております。」
二太夫が深く頭を下げると、喜色満面の一太夫が銚子を差し出しながら、二太夫の言葉を補う。
「太郎殿の勇敢な戦い振りと、すばらしい機転と作戦を話しましたら、一人で龍を倒したのもうなずけると、そりゃもう乙姫様をはじめ、皆が感服しておりましたぞ。」
二太夫は、まだ嬉しそうな声で言葉を続ける。
「乙姫様は執務を終え次第、地上の楽園でお会いしたいそうです。」
久しぶりに聞いた地上という響きに、狂喜する。
「地上の楽園って……、地上へ行けるんか。」
「いえ、地上界を模した楽園という部屋です。乙姫様は昨日の礼として、その部屋をご満喫いただきたいと申しておるのです。太郎殿は春夏秋冬、どの季節がお好みですか。」




