十一
三-十一
夜明けまで音根と激しく愛を交し、我が子を託した。
そのあと家へ戻り、おりんの手で頭にマゲを結い、茶色に銀糸の小紋をあしらった着物を纏い、濃い灰色の袴姿になった。
「よう似合うとる。なかなか凛凛しいぞ。」
支度が整ったので、丘の鳥達の目覚めには早い時分に家を出た。一睡もしていないが、眠気はない。
まず丘に上がって、父と音根の母の墓前に手を合わせた。丘の上り口で緑の葉を増やし、少し背丈が伸びた栗の苗木にも、祈る気持ちで声を掛ける。
「必ず帰るでな、無事を見守ってくれ。音根を頼むぞ。」
浜に出た。まだ黒い海面を眺めると、不安が得もしれない恐怖に変わってゆく。覚悟はできているつもりでも、震えが止まらない。
少し後方で、おりんと梓が手を繋いで立っている。音根が筍の包みを手に、丘を駆け下りてきた。
「海の中は分からんけど、お腹が空いたら食べて。」
「おぅ、握り飯じゃ。かたじけない。」
梅の実を包んだ風呂敷に握り飯を加えて、首に結えた。まだ暗い浜は、打ち寄せる高波の音がやけに騒がしい。後方に人の気配がして振り返ると、いつの間にか多くの村の衆が、集まっているではないか。
「太郎、やっぱり行くんか。亀の嘘っぽい口車に乗って、行かんでもええぞ。」
「亀は来とらん。やめとけ、やめとけ。」
村の衆の心配そうな声に、ぎこちない笑顔で応える。空は明るくなったが朝日が顔を出すまでは、少し時がある。大海亀はまだ姿を現わさない。
「亀は来んのと違うか。」
「亀が約束なぞ、守るもんか。」
あちこちでヒソヒソ話が始まり、中には亀にしてやられたと、笑い出す者もいた。
---いや来る。ショウは迎えに来る。
海を睨み、腕を組んで待つ。ザワザワと葉を摺り合わせる木々の間から、小鳥達の囀りが聞こえ始めた時、二丁ほど沖の、波の間に黒い固まりが浮かんで見えた。
その固まりは真直ぐ近付く。あれは確かにショウだ。
「ありゃりゃ、亀じゃ。亀が来たぞぉ。」
浜の皆が口々に叫んで指さし、両手を上げて逃げ出す者もいる。自分も一緒に逃げたい衝動が湧き上がった。弱虫と笑われても構わない、逃げよう。
だが足が硬直して、思うように動かない。もがいていると直径が六尺、高さが三尺の大海亀が、目の前に到着した。
---あぁ、もうダメじゃ。逃げられん。
「太郎様、出てくださると信じておりました。さあ、丸薬を一粒お飲みになって、私にお乗りください。」
大海亀がクルリと横向きになった。すると見えない何かに誘導されるように、甲羅の丸い粒を手に取り、飲み込んで甲羅の頂上へ上がり、馬乗りに座ってしまった。
「皆様、早朝からのお見送りご苦労さまです。これから五日間だけ太郎様を海にお誘いしますが、途中で太郎様が引き返すとおっしゃれば、私が責任をもって浜へお返しいたしますので、どうぞご安心ください。」
ショウがゆっくり海へ、方向を変え沖に向かう。ショウの挨拶を聞少し安堵はしたものの、海中で豹変して襲いかかって来るのではないか。不安と恐怖が渦巻いて、浜の方を振り返る余裕などない。
浜でも手を振る者はおらず、見送りというのに皆が胸の前で手を組み、神仏に祈っている姿だ。太郎を乗せた大海亀が、うねる波の間に消えた。
海面を見つめる村の衆の後方で、おりんと梓が砂に崩れ落ちているのを万作が見つけ、黙って隣に座った。
「万作はん、あの子亀を質に取っとるじゃろな。縄でしっかり繋いどるか。」
万作は目を伏せたまま、顔を横に振った。
「いいや。その話を親亀にしたら、繋いで待っているように言うた。じゃが子亀を繋いでおいて、死んだり病いになったりしたら、太郎の身が危ないでの。毎日、陽が沈む頃に顔を見せるよう言い聞かして、海へ放した。帰ってくるのが五日後とは思えんが、心配いらん。太郎は必ず帰るで。」
「何で、五日で帰らんと思うんか。」
「ワシが思うに……。短うてひと月、長いと一年先かもしれん。」
「そ、そんなに長いんか。なぜじゃ。」
おりんの苦しそうな顔を見て万作は、音根と勘次も手招きして呼び寄せ、横に座らせた。
「弥助と勘次が、試しに海に潜った時じゃ。二人ともすぐ上がったと言うたが、浜では半刻も経っておった。あの丸薬は、時の早さを変えるのかもしれん。」
四人の顔色が変わり、声が出ない。
「ええか、五日で帰って来んでも心配いらんぞ。太郎は五日後じゃと思うて帰るで、あきらめんと待とう。」
朝日が差江の山並みから顔を出し、海面に長い光の筋を引いた。
「おお息ができるじゃ、海の中とは思えん。」
弥助と勘次が試しに海に入り、戻ってきたときの大袈裟な興奮が信じられなかった。
だが今は、二人と同じように興奮している。顔が水に浸かった瞬間、思わず息を止めたが、そっと息を吸い込んでみると、普通に呼吸ができたのだ。




