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真説・うらしまの太郎  作者: 川端 茂
一
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31/86

十

三-十

 まして人間が入(はい)るべきではない海の中。ショウがどんな約束(やくそく)をしようと、過酷(かこく)な現実(げんじつ)が待っていると考(かんが)えていい。梓(あずさ)が言うように、亀の企(たくら)みも臭(にお)う。

「オラ、大海亀(おおうみがめ)が、ありもしないことを言う悪(わる)い奴(やつ)とは、思えんじゃ。海の中が明(あか)るうて、人間(にんげん)がおったら会(お)うてみたい。一人(ひとり)で行かせるのが心配(しんぱい)なら、二人(ふたり)でもええ。勘次(かんじ)はどうじゃ。」

「オラはダメじゃ。あの薬(くすり)を飲んで、いっぺん海に入っとるで、亀(かめ)がもう潜(もぐ)れんと言うた。」

「あたいが一緒(いっしょ)に行(い)く。もし太郎さんが戻(もど)らんかったら、頼(たよ)る親戚(しんせき)がないで。」


 母の急死(きゅうし)がなければ、祝言(しゅうげん)を挙(あ)げていた二人(ふたり)だ。どんな危険(きけん)に遭(あ)おうとも、運命(うんめい)を共(とも)にしたいと、考え抜(ぬ)いた進言(しんげん)だろう。

「いかん。何(なに)があるか見当(けんとう)も付かん海の中じゃ、音根(おとね)に恐(おそ)ろしい思(おも)いは、させとうない。」

 頭を垂(た)れて話(はなし)を聞いていたおりんが、口(くち)を尖(とが)らせて天井(てんじょう)を仰(あお)ぎ、目を閉(と)じた。小さい頃(ころ)から気が弱(よわ)く、泣(な)き虫(むし)で引っ込み思案(じあん)だった太郎が、龍(りゅう)との闘(たたか)い以来(いらい)、見違(みちが)えるほど強(つよ)くなっている。

 そして今は覚悟(かくご)を決(き)めて、海に臨(いど)もうとしている。ここで無理(むり)に断念(だんねん)させると、一生悔(いっしょうく)いが残(のこ)ると考えた。


「太郎は行(い)くんじゃな。なら、一人(ひとり)で行(い)け。そんで亀に、何があっても命(いのち)の保証(ほしょう)をすること、必ず五日(いつか)で帰すことを強(つよ)く約束(やくそく)させろ。海に入って何(なに)も見(み)えんかったら、すぐ引(ひ)き返(かえ)すこともじゃ。」

 そして、命(いのち)を救(すく)った子亀(こがめ)を、五日(いつか)の間(あいだ)だけ、万作(まんさく)の家で繋(つな)いでおく質草(しちぐさ)作戦(さくせん)も出した。

「万作はんが子亀(こがめ)を質(しち)に取(と)るで、どれひとつ欠けても子亀(こがめ)の命(いのち)はないと言(い)え。」

 おりんは、あふれる涙(なみだ)を拭(ふ)きながら詰(つ)め寄(よ)って、両手(りょうて)を握(にぎ)った。


「着(き)て行くのは、表島(おもてじま)の殿様(とのさま)に貰(もろ)うた着物(きもの)にしよう。そうじゃ手土産(てみやげ)は、海の中にないじゃろう梅(うめ)の実(み)を包(つつ)もうな。」

 涙声(なみだごえ)で旅立(たびだち)ちを気遣(きづか)うおりんを見て、音根(おとね)と梓(あずさ)が泣き崩(くず)れ、勘次(かんじ)の目からも涙が滴(したた)り落(お)ちる。

 おりんの許(ゆる)しが出て、海に入る希望(きぼう)は叶(かな)った。だが、それが現実(げんじつ)となった途端(とたん)、身震(みぶる)いが止まらなくなった。もう引(ひ)き下(さ)がれない。海の中で楽(たの)しく過(す)ごし、元気(げんき)に帰ることだけを考(かんが)えよう。

「明日は早(はや)い、もう寝(ね)るか。」

 消(き)え入(い)るような弱々しいおりんの言葉(ことば)で、話(はな)し合いが終(おわ)わった。


 勘次(かんじ)が家を出(で)ると、音根(おとね)も辛(つら)そうに、目(め)を伏(ふ)せて出(で)る。

「音根(おとね)、ちょっと。」

 追(お)いかけて外(そと)に出た。家の中を振(ふ)り返(かえ)ると、おりんは上目(うわめ)遣(づか)いで、小さく何度(なん)も頷(うなづ)いていた。

 二人(ふたり)は並(なら)んで、丘(おか)の音根(おとね)の家に向かう。寂(さみ)しげな波の音(おと)が「太郎、やめてもいいんだぞ。」と後ろ髪(がみ)を引(ひ)く。足許(あしもと)で提灯(ちょうちん)の明かりまで、悲(かな)しそうに揺(ゆ)れている。

 冷(ひ)え切(き)った家に入って、囲炉裏(いろり)に火(ひ)を点(つ)けた。家を出(で)てからここまで、どちらも声(こえ)を出していない。

狭(せま)い空間(くうかん)の静寂(せいじゃく)を紛(まぎ)らわせるように、少し開(ひら)いた窓(まど)の外で柿(かき)の葉(は)が、カラカラと小さな音色(ねいろ)を奏(かな)でている。


 囲炉裏(いろり)の固炭(こたん)に竹筒(たけづつ)で息を吹(ふ)きかけながら、無事(ぶじ)に帰らなければ皆(みな)に済(す)まないと自責(じせき)の念(ねん)が、頭(あたま)の中で大きく膨(ふく)らむ。

 オラは今(いま)、どんな顔(かお)をしているのだろう……。音根(おとね)が言葉(ことば)を待(ま)っている、何か言わなきゃ。

「オラ、どんなことがあっても、ここに帰るじゃ。人間がおる海の中は、明(あか)るうて綺麗(きれい)で、楽(たの)しい所じゃて。」

 初(はじ)めてかもしれない、こちらから重苦(おもくる)しい沈黙(ちんもく)を破(やぶ)ったのは。

 音根に決意(けつい)を示(しめ)すが、それは自分(じぶん)自身(じしん)にも言い聞(き)かせている。


 囲炉裏(いろり)の火がボッと燃(もえ)え盛(さか)って熱気(ねっき)が膨(ふく)れ上がり、狭(せま)い部屋はすぐに暖(あたた)かくなった。後ろで茶(ちゃ)の用意をしていた音根が横(よこ)に座(すわ)り、煤(すす)けた鉤(しゃく)に水(みず)を注(そそ)いだ釜(かま)を掛(か)ける。

 音根は言葉を模索(もさく)しているのか、ずっと無言(むごん)だ。横顔(よこがお)の頬(ほほ)から首筋(くびすじ)へ炎(ほのお)の色が貼(は)り付いて、柿色(かきいろ)に浮(う)かび上がる。釜(かま)がチンチンと細(ほそ)い音を立て、蒸気(じょうき)が沸(わ)き出(だ)すのを見た音根(おとね)が、ゆっくり竹杓(たけじゃく)で湯飲(ゆの)みに注(そそ)ぐ。

「オラ、子亀を助けた礼と言う、ショウの言葉を信じとる。龍の仇討(あだう)ちで来たとは思いとうない。」


「あたいも……。あの亀が龍の仇討(あだう)ちなら、そんな回(まわ)りくどいことしないと思う。太郎さんは、絶対(ぜったい)帰(かえ)って来るっちゃ。でも、でも、二度(にど)と会(あ)えんような気がして。」

 無言(むごん)で囲炉裏(いろり)の火を混(ま)ぜていた音根(おとね)が、聞き取(と)れないほど小さな声(こえ)でつぶやいた。それは物悲(ものがな)しい声(こえ)であった。

 じっと火を見つめる顔に、柿色(かきいろ)の光と影(かげ)が揺(ゆ)れる。わずか五日(いつか)だけというショウの言葉と、音根の再(ふたた)び会(あ)えないという言葉が、胸の中で衝突(しょうとつ)して、苦(くる)しい。

「絶対に帰るで、心配(しんぱい)するな。五日(いつか)後(には)には会(あ)えるじゃ。」

「怖(こわ)い。」


 母の死で、祝言(しゅうげん)は延(の)びたが、半年(はんとし)先(さき)の秋に挙(あ)げることになっている。音根はもう、妻(つま)同然(どうぜん)だ。

もし帰(かえ)れなくても、自分が生(う)まれた証(あかし)は残(のこ)したい。それを愛(いと)おしい妻(つま)に託(たく)したいと強(つよ)く思う。一緒(いっしょ)に悲(かな)しい気持ちになってはいけないと、肩(かた)を優(やさ)しく引(ひ)き寄(よ)せた。

「今夜(こんや)、二人(ふたり)だけの祝言(しゅうげん)を挙(あ)げよう。」

 音根が腕(腕)の中で、コクリとうなずいた。

 いつもと変わらない夜が更(ふ)け、東へ吹(ふ)き抜(ぬ)ける風が強(つよ)く、暗い空(そら)をあわただしく雲(くも)が走(はし)る。西に傾(かたむ)きかかった半月(はんげつ)に照(て)らされて、イタチがヒエ畑(ばたけ)を駆(か)け抜(ぬ)けた。

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