十
三-十
まして人間が入るべきではない海の中。ショウがどんな約束をしようと、過酷な現実が待っていると考えていい。梓が言うように、亀の企みも臭う。
「オラ、大海亀が、ありもしないことを言う悪い奴とは、思えんじゃ。海の中が明るうて、人間がおったら会うてみたい。一人で行かせるのが心配なら、二人でもええ。勘次はどうじゃ。」
「オラはダメじゃ。あの薬を飲んで、いっぺん海に入っとるで、亀がもう潜れんと言うた。」
「あたいが一緒に行く。もし太郎さんが戻らんかったら、頼る親戚がないで。」
母の急死がなければ、祝言を挙げていた二人だ。どんな危険に遭おうとも、運命を共にしたいと、考え抜いた進言だろう。
「いかん。何があるか見当も付かん海の中じゃ、音根に恐ろしい思いは、させとうない。」
頭を垂れて話を聞いていたおりんが、口を尖らせて天井を仰ぎ、目を閉じた。小さい頃から気が弱く、泣き虫で引っ込み思案だった太郎が、龍との闘い以来、見違えるほど強くなっている。
そして今は覚悟を決めて、海に臨もうとしている。ここで無理に断念させると、一生悔いが残ると考えた。
「太郎は行くんじゃな。なら、一人で行け。そんで亀に、何があっても命の保証をすること、必ず五日で帰すことを強く約束させろ。海に入って何も見えんかったら、すぐ引き返すこともじゃ。」
そして、命を救った子亀を、五日の間だけ、万作の家で繋いでおく質草作戦も出した。
「万作はんが子亀を質に取るで、どれひとつ欠けても子亀の命はないと言え。」
おりんは、あふれる涙を拭きながら詰め寄って、両手を握った。
「着て行くのは、表島の殿様に貰うた着物にしよう。そうじゃ手土産は、海の中にないじゃろう梅の実を包もうな。」
涙声で旅立ちを気遣うおりんを見て、音根と梓が泣き崩れ、勘次の目からも涙が滴り落ちる。
おりんの許しが出て、海に入る希望は叶った。だが、それが現実となった途端、身震いが止まらなくなった。もう引き下がれない。海の中で楽しく過ごし、元気に帰ることだけを考えよう。
「明日は早い、もう寝るか。」
消え入るような弱々しいおりんの言葉で、話し合いが終わった。
勘次が家を出ると、音根も辛そうに、目を伏せて出る。
「音根、ちょっと。」
追いかけて外に出た。家の中を振り返ると、おりんは上目遣いで、小さく何度も頷いていた。
二人は並んで、丘の音根の家に向かう。寂しげな波の音が「太郎、やめてもいいんだぞ。」と後ろ髪を引く。足許で提灯の明かりまで、悲しそうに揺れている。
冷え切った家に入って、囲炉裏に火を点けた。家を出てからここまで、どちらも声を出していない。
狭い空間の静寂を紛らわせるように、少し開いた窓の外で柿の葉が、カラカラと小さな音色を奏でている。
囲炉裏の固炭に竹筒で息を吹きかけながら、無事に帰らなければ皆に済まないと自責の念が、頭の中で大きく膨らむ。
オラは今、どんな顔をしているのだろう……。音根が言葉を待っている、何か言わなきゃ。
「オラ、どんなことがあっても、ここに帰るじゃ。人間がおる海の中は、明るうて綺麗で、楽しい所じゃて。」
初めてかもしれない、こちらから重苦しい沈黙を破ったのは。
音根に決意を示すが、それは自分自身にも言い聞かせている。
囲炉裏の火がボッと燃え盛って熱気が膨れ上がり、狭い部屋はすぐに暖かくなった。後ろで茶の用意をしていた音根が横に座り、煤けた鉤に水を注いだ釜を掛ける。
音根は言葉を模索しているのか、ずっと無言だ。横顔の頬から首筋へ炎の色が貼り付いて、柿色に浮かび上がる。釜がチンチンと細い音を立て、蒸気が沸き出すのを見た音根が、ゆっくり竹杓で湯飲みに注ぐ。
「オラ、子亀を助けた礼と言う、ショウの言葉を信じとる。龍の仇討ちで来たとは思いとうない。」
「あたいも……。あの亀が龍の仇討ちなら、そんな回りくどいことしないと思う。太郎さんは、絶対帰って来るっちゃ。でも、でも、二度と会えんような気がして。」
無言で囲炉裏の火を混ぜていた音根が、聞き取れないほど小さな声でつぶやいた。それは物悲しい声であった。
じっと火を見つめる顔に、柿色の光と影が揺れる。わずか五日だけというショウの言葉と、音根の再び会えないという言葉が、胸の中で衝突して、苦しい。
「絶対に帰るで、心配するな。五日後には会えるじゃ。」
「怖い。」
母の死で、祝言は延びたが、半年先の秋に挙げることになっている。音根はもう、妻同然だ。
もし帰れなくても、自分が生まれた証は残したい。それを愛おしい妻に託したいと強く思う。一緒に悲しい気持ちになってはいけないと、肩を優しく引き寄せた。
「今夜、二人だけの祝言を挙げよう。」
音根が腕(腕)の中で、コクリとうなずいた。
いつもと変わらない夜が更け、東へ吹き抜ける風が強く、暗い空をあわただしく雲が走る。西に傾きかかった半月に照らされて、イタチがヒエ畑を駆け抜けた。




