三
一-三
当初おりんは何も言わなかったが、このままでは食べていけないと愚痴をこぼすようになった。もう鬼神は出ないから、亡き父の漁を継げと言う。
「父っちゃんは太郎が鯛漁の腕を上げ、表島や北島の商人に頼られる男になってもらいたいと言うとった。ブラブラしとったら、ろくな大人になれんで。」
小言を聞くたびに恐ろしい形相の怪物が、頭上から襲いかかって来るのだ。
半年ほどして、勘次まで鯛漁に出ようと勧めるようになったが、そのたびに泣いて断った。
「なあ太郎、もうあの怪物はおらんぞ。どっか遠い海へ行ってしもうたじゃ。ずっと姿見せんでな。もうこの漁場は安全ぞ。吾作は表島から帰って来たし、じきに藤造も帰ってくるそうじゃ。」
勘次の父は舟造りで、勘次も舟を造っている。おりんと勘次の母は、弥助組でコンブ干しをしている。勘次は舟の操櫓が得意で、出来たての舟に乗せてもらい、海に出たことが何度かある。
鯛漁を再開するべきかどうか、まだ迷う。怪物が出た海は恐ろしいが、母っちゃんが言うとおり働かないと生活が苦しい。勘次が言うように、もう怪物は遠くに行って、この漁場にはいないようだ。
幼いころから臆病ですぐ泣き、年下の子にまで「泣虫太郎」とバカにされ、ずっと一人ぼっちだった。思い出といえば、父と漁に励んだことしかない。
「オラから鯛漁を取ったら、何もない。海はオラの唯一の友達じゃ。どこかへ去った怪物を、いつまでも怖がっとったらいかん。」
意を決し、勘次に鯛漁の再開を告げた。
「ええぞ。明日にでも沖に出て、ぐるっと回ろうじゃ。何もないって太郎にも分かるけえの。そうそう、これから組の名は太郎組じゃ。」
「そりゃ困る、勘次組にしようや。」
「何言うとる。太郎の父っつぁんの名が表島にも、北島にも通っとるけ太郎組じゃ。」
「そんじゃ、太作組のままで。」
それからは、父に教わった釣術を思い返しながら、一尾でも多く鯛を釣る工夫を続ける。
相棒になった隣家の勘次と、出漁するたびに必要数の鯛を釣り上げ、表島や北島へ出向いて売りさばいた。
怪物に襲われることも忘れていないので、父が残してくれた釣り舟には、両腹に転覆を防ぐ羽のような板を取り付けた。
さらに自分で叩いて作った長い槍を二本、足許に積み込んで漁に出た。
槍の一本は何度でも突くことができる真っ直ぐな穂先、もう一本は一度突き刺すと抜けないよう、先を折って返しを付けた穂先だ。
来る日も来る日も鯛漁に精を出したが、怪物が再び姿を現わすことなく五年が過ぎた。
いつしか各地の商人の間で〝鯛釣り名人〟と呼ばれるようになって、あの恐ろしい記憶も薄れていた。
丸い湾の対岸に、差江の町がのぞめる。
差江は高い山に恵まれて大きな川があり、稲作、養蚕、林業が発達して賑わう大きな町だ。山のふもとには、領主・差江将光の城がそびえ、その下に侍屋敷が並び、立派な港もある。
村の衆は差江を表島、自分たちの集落を裏島と称している。
差江とは陸続きであるが、古くから集落や町を島と呼ぶ習慣があり、自分達の小さな集落には地名がないので、こう区別しているのだ。
この裏島は、円弧を描く五丁(約五百m)ばかりの狭い浜に沿って、十六世帯・五十七人が身を寄せ合って、漁業で生計を立てている村だ。
浜の後方は低い丘で、頂部に森はあるが川がないため土地はやせ、漁業以外の産業はない。
暮らしはそれぞれの組が獲った魚を表島や、北島と称している多賀へ出向いて売り歩き、その賃金で食品や着物、薬などを買い込み、皆で分け合う貧しい集落だ。
飲み水は、丘の中腹に井戸を掘ってまかなっている。
浜の西方にはタコ漁の万作組、コンブ採りの弥助組、投網漁の甚三組と吾平組、イカ釣漁の周吉組が朝な夕な出漁し、五年前の怪物の事件を忘れたかのように漁に励む。
東方は大きな岩が海から入り込んでいるため浜は狭く、勘次の家と我が家、丘の上り口にあって、漁をしていない音根の家の三件しかない。
昼過ぎから海が荒れ始めた。東に連なる岩場には高波が砕け、激しい音をたてて白いしぶきが舞い上がっている。
浜にも繰り返し大きな波が押し寄せ、防風松に襲いかかる。北風はさほど強くなく、雲も走っていないのに、なぜか海だけが異様に荒れているのだ。
朝早く、表島から能勢右門と名乗る侍の一行が万作の家に来た。用件は城の婚礼に供する暁鯛を百尾、明日の午の刻までに納めるよう注文というか、命令が下った。
万作が大慌てで我が家に駆け込み、事情を聞いた。万作は顔が引きつっていた。
「表島の殿様に鯛を届けんと、困ったことになるじゃ。」
鯛は自分と勘次が専門なので命令を受けた以上、引き受けざるを得ないと言うのだ。
「えーっ、明日が城の婚礼じゃろ、今から鯛の百尾も釣って、持ってこいとは……。」
勘次が呆れた顔で、万作をにらむ。