六
三-六
温みのある春風が二人の髪をなびかせ、頬を撫でて走り去る。
大地から新芽を突き出し、力強く天空を目指して伸びる雑草の匂いが快い。
藤造が大きく深呼吸をした。
「母ちゃんが逝って、太郎との祝言が流れたなあ。あれから寂しい日が続いたじゃろ、よう分かる。もう喪も明けたし、身を固めにゃ。」
「そう思うとる。でも……。」
「心配するな、親がおらんでも祝言は挙げられる。オラに任せときゃいい。」
「ありがとう、藤造さん。」
ここで音根の心を射抜いたと、確信した藤造。
「オラなあ、ずっと音根を好いとった。小さい頃から変わらずじゃ。オラと……。」
言葉を遮って、音根が立ち上る。やさしい言葉で話していた藤造は、その豹変ぶりに絶句して見上げると、音根は唇を噛み、遠くの海を睨んでいる。
「どうしたんじゃ。」
ゆっくり立ち上がりながら、握りしめた拳に手を伸ばすと、その手を振り切って後ずさりする。
「あたいと太郎さんが祝言の約束しとること、藤造さんも知っとるっちゃ。」
「それは、母ちゃんが生きとった時の話で、今は事情が違う。ええか、太郎は表島や北島の商人、最近は南蛮人とも付き合うて、お前のこと忘れとるじゃろ。」
波打つ心を精一杯抑え、自分の持っている、最もやさしい声で語りかける。
「あいつらは隙を見て、足を払おうとする油断ならん奴じゃ。いつか酷い目に合わされるかもしれんぞ。」
「そんな風に見たらいけん。」
「違う。太郎は鯛釣り名人じゃし、龍もやっつけた。オラも太郎は勇者と認めとるし、村の誇りに思うちょる。じゃが、それとこれは別で、オラは音根に幸せになって欲しい。」
「……。」
音根の気持ちが揺らいだと感じた藤造は、ここが正念場と必死に言葉を探す。
「オラはな、太郎以上に音根が好きじゃ。オラなら絶対に幸せにできる。」
「もう、やめて。」
立ち去ろうとする音根の腕を掴むと、激しく振りほどかれて、また掴む。
足場の悪い畦道で引っ張り合いが続き、音根が足を滑らせて一丈(約三m)ほど下にある坂の横の窪地に滑り落ちた。藤造も勢いで反対側の草むらに倒れ込んだ。
「きゃー。」
音根の悲鳴が浜まで響いた。勘次と舟を洗っていた手を止め、二人は丘へ駈け上がる。
そこに着物の裾がまくれて太ももを露わにした音根が、坂の横の窪地で、うずくまっているではないか。
「音根、どうした。何があった。」
駆け寄って抱き起こし、怪我の具合を確認した。どうやら腰と膝を強く打って歩けないらしく、手足は擦り傷が痛々しい。
勘次が上を見ると、窪地の上に仁王立ちの藤造がいる。その情景は、あたかも藤造が音根を突き落としたように見えた。
激昂した勘次が藤造に詰め寄り、肩を強く突いて胸倉を掴む。
「藤造、音根に何をした。」
勘次の突進を受けて、藤造も逆上し、勘次の腕を突き返す。
「お前こそ、何するんじゃ。」
突き返した藤造の拳が、勘次の左頬に強く当たったので、口の中が切れて血が流れ出る。こうなると互いに冷静を欠き、坂で激しい揉み合いが始まった。
音根を家に送って戻ってみると、二人は坂の下の窪みで草と泥にまみれ、手も顔も血まみれになって殴り合っている。
「わぁ、何やっとる。」
二人を引き離そうとした時、藤造が手を振り払って丘を駆け下った。
「ちょっと、藤造。待てや。」
事の真相を聞かねばと、後を追う。浜で追い付いたが、藤造は足許の棒切れを拾い、振り回すので引き止めができない。
「話を聞きたいだけじゃ。藤造が音根を突き落としたとは、思うとらんで。」
「オラの気持ちは、お前なんかに分からん。放っとけや。」
「このままでは、藤造が悪者になってしまうじゃろ。」
「放っとけ言うとるんじゃ。オラはもう終わりじゃ。」
棒切れを振り回しながら浜を走る。再び追いかける。
浜の中程に来て、藤造が砂に埋もれていた丸い固まりにつまずき、頭から砂に倒れ込んだ。頭髪は砂を被って白髪のようになり、涙と血で濡れた顔も、砂まみれだ。
「こん畜生。こんな物までが、オラを馬鹿にするんか。」
丸い固まりを棒切れで叩く。バシッバシッと鋭い音が響き、足で何度も蹴る。近づくと、それは海亀の甲羅だ。
「そりゃ、海亀の子供じゃぞ。やめろー。」
叫びながら海亀に覆いかぶさり、藤造が叩き付ける棒切れを背中で受け止めた。
「痛ててっ、やめてくれぇ。」
その騒ぎに、西浜から万作と冶市が、東浜から勘次とおりんが走って来た。皆の目には藤造と自分が喧嘩して倒れたところを、藤造が叩いていると見えただろう。
「やめろ、藤造やめろ。」
冶市が背後から飛びかかって押さえ付けた。万作も援護し、身動きできないように、手足を押さえる。
「何てことするんじゃ藤造、気でも狂うたか。冶市、この縄で手を縛り上げろ。こ奴をワシの家の柱にくくりつけておけ。後でワシも行く。」
力なく泣きむせぶ藤造を、荒っぽく追い立てながら、冶市が去った。




