第三章 母の喪が明けた音根に恋心を告げた藤造が悶着で子亀に暴行、救助すると親亀が現れて、御礼に海底へ招待すると言う
三-一
「お佐夜さん、しっかり。表島からの医者が、もうすぐ着くでな。」
背中付近にいる者は背を擦り、足元にいる者は懸命に足を擦る。今はそうするしか方法がない。
お佐夜は小刻みに身体を震わせ、コンコンと苦しそうに咳き込み、そのたびに口から血がほとばしる。
何も出来ないというのが、こんなに辛いとは……。医者を迎えに行った藤造を、今更ではあるが恨めしく思った。
東の山から朝日が顔を出し、弱い陽光が小窓の形を壁に映した時、お佐夜の咳と痙攣が止まった。そして苦しそうだった顔が、安らかな顔に変わった。
変化に気付いた弥助が、お佐夜の手を取る。やがてお佐夜の手を額に当て、深々(ふかぶか)と頭を下げた。
「お佐夜さん、神仏の所へ行っちまった。」
音根がお佐夜に覆いかぶさって、身体を揺さぶる。
「母ちゃん、死んだらいけん。あたいの子供を見んと死ねん、言うとったじゃ。」
音根は兄弟がなく、幼い頃に父に死なれ、親類もない。母を亡くしたら身寄りがないのだ。
激しく身を震わせ、泣き叫ぶ音根を、弥助が黙ってお佐夜から離す。
婦人達がお佐夜の身体を伸ばし、仰向けにして布団を掛け、顔に白い手拭いを被せた。
後方にいた万作が膝でにじり寄り、陽に焼けた太い腕でゴシゴシと目をこすりながら肩を落とし、音根と自分に断りを入れる。
「もう藤造達は医者を連れて、こっちに向かっとるじゃろう。ワシが話してくる。来る途中でも賃金は払わにゃいけんで。」
堪らず 大声で泣き出す者がいる。小さな村だ、誰にもそれぞれの思いが交錯する。
すっかり夜が明けた。万作が家を出ると入れ代わりに真知という婦人が、線香を持って入ってきた。真知は少し前にそっと家を出たが、誰も気付かなかった。皆、お佐夜との別れで頭がいっぱいだったのだ。
部屋の隅で火打石が乾いた音をたてると、音根が声を荒げて泣き出し、横の婦人が、肩を抱いて慰める。お佐夜の枕元に線香が立ち、薄紫の煙が行き場を捜して曲がりながら昇る。
ほのかな線香の匂いが、悲しみを浄めるかのように立ち込めた。
小窓の日射しが皆の顔を照らし始めた頃、冶市が一人で戻り、お佐夜の枕元で手を合わせた。
「おばさん、もうちょっとの辛抱じゃったんぞ。無念じゃ、まっこと無念じゃ。」
唇を震わせて、悔しそうに泣く冶市。弥助が冶市の肩に、手を差し伸べる。
「ご苦労はんじゃった。ところで医者はどうなった。」
「お医者は見つけて、話を聞いてくれたじゃ。薬や道具を積み込んだ舟で来てくれた。浜に着く手前で万作はんが来て、おばさんのことを説明してくれた。お医者の舟は引き返した。」
だが一緒に行った藤造が戻っていない、何かあったのか。治市に聞こうとした時、藤造が入って来た。手には丘で摘んだのだろう、野菊の花を両腕いっぱい抱えていた。
「おばさん間に合わんで、ごめんな。もう半刻早かったら間に合うたのに、辛かったじゃろう。せめて、おばさんの好きじゃった菊で飾らせてくれ。」
藤造は泣きじゃくりながら、その花をお佐夜の布団の上にそっと撒いた。それを見た婦人達が、次々に家を出て色とりどりの花を抱えて戻り、布団や枕元に飾るように並べる。見る見る継ぎはぎの薄い布団が、旅発つ艶やかな衣裳になった。
野の花に飾られたお佐夜に、一人ひとりが声を掛けて手を合わせ、帰ってゆく。考えてみれば、誰もがお佐夜の危篤を聞いて、晩飯を摂らずに駆け付け、今まで一滴の水も飲むことなく、ここに座っていたのだ。
おりんと梓も帰り、音根と二人になった。春に祝言を控えていながら、何もできなかった情けない自分が出来ることは、悲しみに暮れる音根を一人にしない、これだけだ。そんな心の内を読んでいたのか、梓が二人分の白いご飯と味噌汁を持って入ってきた。
音根とお佐夜を見守り続けて丸一日が経ち、秋虫の音色がチロチロ聞こえる閑静な朝を迎えた。
静けさを打ち破って、ガタガタと響く戸の音で飛び起きた。万作と弥助が、大きな木樽を転がしながら家に入って、入口の内側に立てた。
「おう起きとったか。お佐夜さんを見守って、ご苦労じゃった。これはお佐夜さんが乗って行く舟でな。炭焼小屋の東に穴を掘ったで、この舟で穴に入るんじゃ。」
万作と弥助は、黒い法衣に茶色の袈裟を掛けた衣装だ。普段は魚衣か質素な着物なのに、逝った者への弔いにと用意しているのだろう。
「そろそろこの舟に入ってもらうでの。」
弥助に促され、三人でお佐夜を抱え上げ、足から樽にソロリと入れた。樽に納まったお佐夜に掛布団を被せ、しぼんだ野の花を添えながら、万作が音根にたずねる。
「お佐夜さんが、あの世へ持って行く物はないか。大事にしとった物がええな。」
母が大切にしていたという、繕い道具を音根が差し出すと、それを黙って樽に入れる。
弥助が蓋をして縄で縛ろうとした時、音根が二人を払いのけ、蓋と縄を外に放り出し、狂ったように母を引き出そうとする。




