第一章 漁に励んでいると突如現れた巨大な怪物に父が飲み込まれた。その怪物が漢という国に伝わる寓話の龍だったとは…
一-一()
空はほんのり明るくなってきたが、東の山頂から朝日が顔を出すには、まだ半刻(約一時間)ばかり早い。
いつものように父の太作と声を掛け合いながら、切り立った岩がいくつも突き出したつばくろ岩の近くで、鯛漁に精を出している。海面は穏やかな表情を見せて、鯛は順調に釣れていたのだが……。
「変()じゃな。鯛が消えた。」
父が唇をとがらせてつぶやく。さっぱり鯛が掛からなくなったのだ。
表島の魚商に売る二十尾は確保しているが、売り歩きの鯛が足りない。撒き餌を増やしたり、場所を変えたりしてみるが、状況は変らない。
「こんな事は初めてじゃ。ちょっと早いが、もう終うとするか。」
仕方なく鯛をトロ箱に詰め、帰り支度を始めた時、二丁(約二百m)離れた右舷方向で、不自然なうねりが発生して迫り、舟が上下に大きく揺れた。
「気を付けろ。飛ばされるでないぞ。」
父の声が聞こえた直後、今度は半丁(約五十メートル)先で波しぶきが高く舞い上がり、バシャバシャと舟に降り注ぐ。
「舟に伏せて、足掛けに掴まれ。鯛はええから急げ。」
父が悲鳴に似た声を上げたので、底板の足掛けにしがみついた。しぶきは断続的に降り注ぎ、舟はますます激しく揺れ、きしむ。
ほの暗い空が歪む勢いで上下左右に行き来し、つばくろ岩や、うねる海面が覆い被さるように、頭上に姿を現す。
一体何が起こったのか。見当が付かないまま、舟から投げ出されないよう足掛けに腕を通してしがみつく。父はと見ると、トロ箱に身体を被せて鯛を必死に守っている。
「大丈夫か、手を離すでないぞ。」
その時、しぶく波の中から黒い大きな物体が現れた。それは暗い空に向かって垂直に伸びて行く。
「ありゃ、つばくろ岩が生まれたんか。こんな時に生まれんでも……。」
憎々(にくにく)し気に見上げると、頭上で左右に激しく揺れる黒い影。クネクネと曲がり、頂上に大きな塊が乗っている。切り立った岩は、海底からせり出して数を増やすのか。
だが頂上の塊に、二つの金色っぽい光が見える、あれは目のようで、暗い空を背にして、こちらを睨んでいるように見える。
「うわ、か、か、怪物じゃぁ。」
つばくろ岩ではない。とてつもない大きな大蛇が、海の中から飛び出してきたのだ。木の葉のような釣り舟は、押し寄せる波であっけなく転覆し、父と鯛は、海に放り出されてしまった。自分は底板の足掛けに腕を通していたので、舟の舳先にしがみつき直すことができた。
繰り返し迫る高波がぶつかり合い、そのしぶきを被る。波の圧力に、いつ振り解かれるか分からない。
---父っちゃんが見えんよぉ、母っちゃん助けて。
空が少し明るくなり、高く突き出している怪物の輪郭がくっきりして来た。胴回りは、浜の大松の幹よりも太い。目を凝らすと頂上の塊は馬の頭に形が似て、大きく裂けた口のようなものが突き出している。後方に長い角があり、大蛇でもない怪物だ。
何の前触れもなく現れた大きな怪物に仰天しつつ、波を被りながらも頭上の怪物から目が離せない。いや目を離すほうが、かえって恐怖が増す気がする。
怪物の金色の目の光が強くなり、裂けた口が大きく開いた。ゆっくり胴体を丸めるように曲げると、こちらへ一直線に向かってきた。
激しい水音がし、再び舟にしぶきが降りかかる。見ると怪物は父の上半身を食わえ、空高く跳ね上がった。
「グェー。」
甲高いうめき声が、怪物の口の中からこぼれる。
「わあ、父っちゃーん。」
震える声で精いっぱい叫ぶ。
怪物は、口からはみ出して足をバタバタさせている父を、食わえたまま少しの間、こちらを見ていた。
---やめてくれー、父っちゃんを落とせー。
願いも叶わず、怪物は頭を高々と持ち上げ、天を仰いで父を一気に飲み込んでしまった。
気を失いそうになりながら、舟の舳先にしがみ付いている。うねる波、渦巻く水面に振り回される。
怪物が海の中から現れ、父が生きたまま飲み込まれるまで、それは途方もなく長い時に思えた。
頭上高くにあった怪物の頭部が、今度はゆっくり降りてきた。金色の鋭い眼光と、裂けた赤い口がじわじわと迫る。
---オラも食われる。飲み込まれる、いやじゃぁ。
近づく怪物の異様な大きさに恐怖し、手足が硬直して動かない。歯がガタガタと鳴る。
「か、か、母っちゃーん。」
逃げることができない我が身。父と同様に生きたまま飲み込まれ、怪物の腹の中で苦しみ、もがきながら死んでゆくと思うと、全身の力が抜けてフワッと気が遠くなった。
ハッと意識が戻った。だがなぜか温かい布団の中だ。枕元には母のおりんと妹の梓が、向き合うように座っているのが見える。
---ここはオラの家じゃぞ。あれは夢じゃったんか。
起き上がると寝間着姿だ。父と漁に出たのも夢だったのか。母に、父はどこにいるのか聞くと、海から戻っていないと言う。そして自分だけが濡れた漁衣のまま、浜で気を失っていたので、運んで帰ったと答えた。