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駅へ向かう道は、さっきより少し静かだった。
告白の余韻が、まだ空気の中に残っている。
悠は篠原の手を握ったまま歩く。
指を絡める。
逃がさないように、でも強く握りすぎないように。
篠原は少し緊張したまま、それでも手を引かない。
その事実だけで、胸の奥がじんわり熱い。
彼氏。
その言葉がまだ実感を持たない。
でも、この手の感触は確かだった。
数分歩いて、改札が見えてくる。
言わなきゃいけないことが、ひとつ残っている。
「あの、さ」
自然に出た声が、少しだけ低い。
「……はい?」
篠原が見上げる。
目が合うと、また心臓が変に鳴る。
さっき告白したのに、まだ慣れない。
「名前」
「名前……?」
きょとんとした顔。
「篠原じゃなくて、その……」
喉が少し詰まる。
なんでこんなに言いにくいんだ。
「呼びたい」
篠原の目がわずかに揺れる。
「下の名前」
そこまで言ってから、少しだけ視線を逸らす。
理由は、ちゃんとある。
佐藤が「朱里」って、
当たり前みたいに呼んでいた。
あれが、妙に引っかかっている。
自分は「篠原」。
ずっと苗字。
距離がある呼び方。
彼氏になったのに、まだ壁があるみたいで。
子どもっぽいのは分かっている。
でも。
「佐藤に呼ばれてるの、嫌だった」
ぽつりと本音が零れる。
篠原が目を丸くする。
「え」
「別に、あいつが呼ぶなってわけじゃない」
言い訳みたいになる。
でも止まらない。
「でも、俺も呼びたい」
低く言う。
独占欲。
自覚している。
みっともないとも思う。
それでも、言わずにいられない。
篠原はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……朱里、です」
小さく言う。
耳まで赤い。
「呼んでください」
受け止める覚悟のある目。
悠の胸が一瞬、強く締まる。
「……朱里」
声に出す。
初めて。
思ったより、柔らかい響き。
一気に距離が縮まる。
朱里のまつげが揺れる。
「はい」
返事が、さっきよりずっと近い。
悠は小さく息を吐く。
「……悠さん」
朱里が小さく呼ぶ。
その音が、胸の奥まで落ちる。
もう一度、指を絡め直す。
さっきより少しだけ強く。
独占欲は消えない。
でもそれは、乱暴なものじゃない。
ただ、大事にしたいという気持ちの形だ。
改札の前で足を止める。
「また連絡する」
「はい」
名残惜しさが、空気に滲む。
手を離す瞬間、少しだけ寂しい。
でも今は、焦らない。
急がない。
ちゃんと始まった。
秋の夜は冷たいのに、
胸の奥だけが、静かにあたたかい。




