最後の朝、そして風だけが残った。
朝が、来た。
けれど、それは“始まりの朝”ではなかった。
陽の光は薄く、まるで空のどこかで迷子になってしまったかのようだった。
畑の土はまだ凍っていて、霜は枝の先に細く残っていた。
そして、その静けさの中で――ぼくは、気づいていた。
ノラが、いなかった。
肩の上は、軽かった。
風がそのまま通り抜ける。毛の温かさも、声も、何もなかった。
昨日までは、確かにいた。
けれど、今朝の風は、もう彼女の匂いを運んでこなかった。
「……そうか」
そう思っただけで、何も聞こえなかった。
けれど、風が吹いた。
やさしく、そして少しだけ、重たかった。
ぼくの笠が、ふわりと揺れた。
それは――“さよなら”だった。
ノラは、行ったのだ。
この村が本当に無人になるその最後の日に。
精霊としての役目を終え、猫としての時間も終えて、
風の一部に還ったのだ。
ぼくは動けない。
どこにも行けない。
でも、ここにいる。
それだけが、ぼくに残されたすべてだった。
空は静かで、雲は薄く、
遠くの山の稜線がぼんやりとにじんでいた。
風がまた吹いた。
今度は、春の匂いをかすかに含んでいた。
もう、誰もいない村。
誰も耕さない畑。
誰も灯さない火。
だけど――風は吹いていた。
まだこの場所に、命があったことを憶えているように。
ぼくは、案山子。
ただの木と藁でできた、名もない存在だった。
でも、ノラは、少女は、村の人々は、ぼくに“名前”をくれた。
サエ。
その名前が、風のなかでそっと響いた気がした。
ぼくの足元には、まだ残っているものがあった。
押し花。
手紙。
子猫たちの小さな爪痕。
そして、最後に残ったのは――風だった。
誰もいない村に、確かに風が吹いていた。
最後の回は、“すべてが終わった世界”を、
誰にも見送られない者が“見送る”という視点から描きました。
サエとノラは、語らず、騒がず、ただそこに在り続けた存在です。
その姿こそが、この物語の“記憶”であり、“祈り”です。
風が吹き続けるかぎり、この物語は、いつか誰かの胸にまた、そっと立つでしょう。




