90.失いたくないものは。
「み、美咲……?」
最初に口を開いたのは虎子だった。
「ど、どうして、ここに……?」
その問いに美咲は、スマートフォンの画面を見せて、
「虎子が、来て欲しいって……大事な話があるからって……」
「そ、そんな連絡、した覚えは、」
「じゃあこれは何!?」
声を荒げる。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。虎子は慌てて自らのスマートフォンを取り出して、メッセージアプリを立ち上げ、
「え……嘘……なんで?こんなの、俺、打った覚えない!?」
俺はその画面をのぞき込む。そこにははっきりと、虎子からの発信で、メッセージが送られた形跡が残っていた。内容は「大事な話がある」ということと「ハチ公口に来て欲しい」というもの。その時間指定はまさに、今だった。
美咲は続ける。
「そっか……大事な話ってこのことだったんだね……?」
虎子は話についていけず、
「美咲……?」
美咲は小さく首を横に振り、
「ううん……いいの。トラが決めたなら。私はそれでいいの。華ちゃんを、選んだんだよね」
「違っ」
「違わないよ。だって、トラ。華ちゃんのことをじっと見つめてた。語り合ってた。キスまでした。違わないんだよ」
「それ……は……」
実は偽の恋人関係なんです。
だから、これはその一環なんです。
事実だけをまとめれば実に簡単だ。だけど、それをいかに説明したとしても、美咲は信じてくれないだろう。
「いいの。私は、トラが幸せになってくれれば。だから、ね?」
美咲が、一歩後ずさり、
「今日は、ごめん、ね?明日は……明日からは、きっと、普段通りに出来るから……ね?」
更に後ずさる。
「美咲、」
虎子が、引き留めようと一歩前に出ると、
「……っ!」
美咲が踵を返して、全力で走り去る。
その瞬間。
視界に映った。
いや、もしかしたら“映した”のかもしれない。
緑髪の、少女。
「……待てっ!」
その少女は実に楽しそうに笑いながら、俺から逃げていく。逃がすものか、間違いない。あいつが犯人だ。捕まえなきゃ。捕まえて、それから、俺は、
「華っ!危ない!!」
手を、掴まれる。
掴まれて我に返る。
俺の視界に、往来する車が映る。
俺は、スクランブル交差点の真ん前にいた。
信号は、赤だった。
◇
「だから、流石にこれは越権行為で……は!?特別に権限を与えた?一体誰が…………あのね!そもそもあいつらは……ちょっと!聞いてるの!?ちょっと!!??」
部屋の中に、アテナの声だけがこだまする。
俺も聞いたことのない、怒りの声だ。
今、俺たちは渋谷駅からほど近いビジネスホテルの一室に来ている。
これは俺の提案だ。アテナを呼び、状況を飲み込めない虎子を何とか言いくるめ、俺の金を使って部屋を取った。
こういうときに、資金力に問題がないっていうのは助かる。もしこれが駄目だった場合、寮まで戻らないといけなくなる。これから先の話はそれくらいデリケートなのだ。少なくとも、人目に触れる場所で出来る話じゃない。
アテナは携帯をベッドにほん投げて(多分、機器自体は使っていないんだと思うけど)、
「ごめん。こんなことになると思ってなかった。これは私の失態だわ」
要は「派閥争い」みたいなものなのだという。
アテナや、その関係者を中心とした、所謂「穏健派」は、基本的に人間の可能性にかけて、手を出さないのが基本だそうだ。例え、間違った道に行こうとも、それもまた一つの結果として受け入れる。あくまで自分たちは人間たちの可能性を信じて見守る。それがスタンスなのだという。
そして、緑髪の少女。彼女が属するのが「急進派」だそうだ。要は「人間の可能性に賭けない派閥」で、自分たちが人々を導くとして、様々な手を施すのだ。両者の対立は根深いけれど、それはあくまで上の話。現場レベルでは大きな問題は起きてこなかったのだというのだ。
ところが、その構図が変わった。
俺という存在によって。
アテナによれば、俺はあらかじめ異世界に飛ばされることが“決まっていた”のだという。
何故か。
それは寿命より早く死んだ人間に対するアフターケアではなく、本来行うはずだった経験を補うための、いわば補習のようなものなのだというのだ。
そして、そんなケースの中でも俺はひときわ「寿命より早く死んだ」のだそうだ。
それはそのまま生きていたとしても、本来ならばなされるはずの経験がなされないことが発覚したからで、だからこそ、早い段階で転生し、俺はこうして新しい人生を歩んでいる。
しかし、その「前例のなさ」が急進派にとっては「実績を作る格好の的」となってしまっているのだ、というのだ。
と、ここまでは全てアテナが合流するまでに、俺の脳内に語り掛けられた話。
それを聞いているからこそ、俺はアテナの謝罪について理解が出来る。
だけど、虎子は違う。
だから、
「一体、どうなってるんだ?俺、記憶喪失にでもなったのか?」
そう。
今回急進派がやったのは極めて分かりやすい手法だ。
女神というのは時間という概念がない。だから、急進派は、俺と虎子がキスをするところを見てから「過去の美咲」に対して「虎子として」メッセージを送ったのだ。結果として、美咲は実に最悪のタイミングで、俺たちと遭遇することになった。全ては仕組まれていたことだったのだ。
アテナは淡々と、
「記憶を失ったわけではないわ。だけど、そのメッセージは、九条さんが送ったものではない。それは確かよ」
「で、でも、現に送信履歴は残ってるし……」
そう。それが、厄介なのだ。
アテナが言うには、今回のことはあまりの越権行為なので、咎めれば“無かったこと”に出来る可能性が高いという。
その内容は、急進派によって変更が行われた最初のメッセージ送信のタイミング以降の出来事と記憶を全て消す、というもの。それはつまり、今日一日分の、関わった人間全員の記憶と引き換えということだ。今日をやり直す。それだけで、事態は解決するのだという。
本来ならば悩むまでもない。
それによるリターンを考えれば、そうするべきだというのはよくわかる。
だけど、俺はそれを選びたくなかった。
今日一日遊んで、会話して、触れて、そしてキスをして分かった九条虎子という女の子の心の内を、俺はどうしても失いたくないと思ってしまった。
こんな選択は馬鹿かもしれない。きっとアテナには反対されるし呆れられると思う。
けれど、失いたくないのだ。
今日積み上げた、そして、やっと一歩を踏み出した彼女の勇気を否定することは、どうしても俺には出来なかった。
でも、それでは解決しない物事がある。
メッセージは虎子と、アテナが言うには恐らく美咲のものも内容がいじられているだろうという。それによって起きた誤解を解かなきゃいけない。
それに、一度こうして危機にさらされた以上、二度目がないとは限らない。そのたびに記憶を消して、無かったことにするのか。
今回はまだ一日分だったからいい。だけど、次がそうとは限らない。もっと長い間の記憶も思い出も全て消されてしまうかもしれない。その選択肢を取らないようにするために、俺は、“仲間”を作る必要がある。
「ねえ、アテナ」
「なに?緊急措置取る?」
俺は首を横に振って、
「ううん。取らない。その代わりなんだけど、俺の姿を今、ここで、元に戻すってことは出来ないかな?」
それを聞いたアテナは一瞬固まった後、
「え…………え、え、ちょっと待って。それって」
「“俺”の真実を、虎子に教える」
言い切る。
少しの間が空いたのち、
「はぁーーーーーーーー????」
アテナの絶叫が響き渡った。
次回更新は明日(12/4)の0時です。




