そんなこんなで、まとまるものもなく
ある日、前線にて敵情視察に赴いていたクランクフォード子爵に衝撃が走った。
「な、んだ……って?」
よろける馬の上でわなわなと震えるクランクフォード子爵は目と口どころか瞳孔と喉奥まで開けっ広げて、錆びついた人形のようなぎこちなさで後ろを首だけで振り返る。
「兄上が大切にしすぎた“麗しの黒腹姫”が屋敷を去るそうです」
先ほど、つんのめりそうな勢いで子爵に馬の脚を止めさせた言葉を繰り返す声は淡々としている。なのに領地の早馬が持って来た手紙を読むその男の顔はいつになく晴れやかだ。
過去の――バレれば殴り蹴られるでは済まなそうな――可愛い悪戯を自白しても、今なら無罪放免になりそうだと、身に覚えのあるクランクフォード兵たちが生唾を呑み込みながら、溢れ出る期待を視線で送受信しあったほど。
「なっ、何故――!?」
「身の危険を感じて、やむにやまれぬ理由だそうです」
「あの屋敷、いや街で誰がセーラに無体を強いる?」
「どうも外に蔓延る無法者を心配しているらしく」
「やはり、自慢したいがために黒バラ姫の名を広めたのが間違いだったのか!? 否、セーラの魅力は僕一人の胸に忍ばせておくにはもったいないし、どうしたって抑えきれない。遅かれ早かれこうした事態を考えておくべきだった」
「本当に残念ですね。前線は一応落ち着いたとはいえ、敵情視察と今後の方針案の作成を任された今となっては、さすがの兄上でもおいそれとは家に引き返せません」
自問自答の結果、己の不甲斐なさを責め手綱をぎりぎりと握り潰す長男の手前、まいったまいったと気持ち俯けた首を左右に振る次男、その唇が深い弧を描いているのは想像に容易い。
しかし、子爵の次の言葉は耳を疑うものだった。
「いや、お前がいれば十分だ。僕は一刻も早くセーラの元へ帰るよ。もう面倒だからお前が子爵でいいじゃないか」
雨が降りそうだから洗濯物をとりこみに戻るよ、面倒だし今日のお昼は昨日のシチューでいいな、くらいの気安さ。
人畜無害に微笑む子爵は、弟に前線の指揮もろとも子爵位を譲ると宣言し悠然と馬首を返す。
僅かに動じたものの、すんなりと子爵を思い止まらせる案が次男に浮かんだのは、やはり似たところのある兄弟だからだろう。
「そうですか。しかし兄上自慢の黒バラ姫は、途中で仕事を投げ出す責任感のない者が嫌いじゃなかったですか? ほら、家族の一大事よりも仕事を優先する男は骨を抜いてやりたいと言っていたと空耳で聞いたことがあるような無いような……まあ、使命を投げ出した兄上が実家に戻られたらわかることですので、どちらでもいいですが。――おや、お帰りにならないのですか?」
再度馬首を反転させた子爵はきりっと眉頭を下げ、男らしく胸を張る。
「有言実行は男のたしなみであり甲斐性だ。ここは敵情視察やら今後の方針案やらまどろっこしいことはせず、向こうが体勢を立て直している間にさっさと突撃して一気に押し戻してしまおう。誰か戻って一秒でも早く全軍率いてこい。わかってるな、責任者が渋るなら甘言蜜語と嘘八百で騙して連れてくるんだぞ」
子爵が自軍の野営地に向けて肩越しにしゃくった顎の延長線上には、不幸にも白羽の矢を立てられた兵士が一人。前にも後ろにも動けなかったが、死者の行列に加わる覚悟で正論を述べる程度には年をとっていた。
「そ……それだとっ、うまくいってもこちらの被害が大きく……」
「功績を上げた僕が死なずに一刻も早くセーラの元へ戻れたらかまわないよ。腕や脚の一本や二本、セーラがいない屋敷に帰るくらいなら安いものだ。お前たちだって、もう一度会わずには死んでも死にきれんと慕う者の一人や二人いるだろう? 他の奴らも死にたくなければ死にもの狂いで戦うはずだ。死地に陥れて後に生く、だよ。そもそもそういう緊迫感が足りないから押して引いてを繰り返すこう着状態なんかになるのさ。なにより戦地に赴いた兵士のくせに己の力不足を僕のせいにされても困るよ」
「麗しの黒バラ姫は心優しいので死傷者と離れ離れになる孤児の多さにきっと嘆かれますよ? ふさぎ込んだ彼女に部下を蔑にする無能な男だと睨まれ、手伝いを理由に里帰りされてもいいんですか?」
さすがに見兼ねた次男が取り成せど、子爵は依然としれっとした様子。
「じゃあ追々策を巡らせよう。ただし、敵前逃亡は死を持って贖うべきだが、僕がセーラと再会するまでの時間を引き伸ばす輩は死ねたら幸せだと地獄を恋しがらせてやる」
「念を押しておきますが、兄上が大怪我なんてすれば、黒腹姫は軽症者の看病に当てられますからね」
「わかっているとも。そんなことになれば、その患者は僕より重症になる」
「兄上が傷つけば意味がな……」
「あーあーあー、まったく。わざわざセーラに見舞わせず、なおかつ彼女の気をやまさない程度の怪我しかするなと発破をかけたんだ」
雪解け水が屋根を伝い落ち、土を打つ微かな音が心地よかったクランクフォード伯爵家に悲痛な叫びが轟いた。
「おや、坊ちゃんがたのお帰りだね」
万に一つの可能性にかけて家探しでもしているのか、手当り次第に開けっ放される扉と不意をつかれた使用人たちの悲鳴に給仕係は耳をそばだてる。
「子爵ともあろう者がかまびすしいこと」
いつになく厳しい声音のお婆さんの前に料理長が温かいお茶を差し出した。
「セーラちゃんが出てっちゃったんだから仕方ないでしょう」
「でもちゃんと間に合うよう知らせてあげたのに。こんなに遅かったなんて坊ちゃんが握り潰しちゃったとか?」
わくわくした様子で首を捻った給仕係に、お婆さんはにっこりと微笑んだ。
「逃げられたのも、未然に防げなかったのも、どちらも子爵の自業自得さ」
「そうそう、あの子は兄に心底嫌われることは血の涙を流してもしないからね」
つられて苦笑した料理長はどこか呆れ気味にぼやいた。
「だよねぇ、あたしらだってマネキン直していったげてとか、色々無理難題ふっかけて引き留めてたんだよ。なのに結局数時間の差で行き違いだなんてねぇ」
「自分で探しゃいいさ」
「あたしらは行先なんて知らないよ」
「大奥さまと奥さまは冷たいね」
「まあ、いいんじゃないか」
「あら、旦那さまも。それでも見つからなかったら、坊ちゃんはまた子爵さまに苛められるんだろうね、かわいそうに。いつもみたいに使用人総出で慰めてあげよっと」
庶民派な生活を送る雇い主一家に気安い口をきく給仕係が笑いを噛み締めたところで、台所のドアがけたたましく開けられ男が一人駆け込んできた。
「誰ですかっ、このマネキンに頭を加えたのは!? セーラがいないのでせめてもといの一番に逢いに行ったのに。僕の愛しの黒バラ姫とは似ても似つかぬ阿婆擦……」
「セーラが手ずから直した憧れの黒バラ姫に文句があるのかい?」
「どうりで! 後世に名を残す芸術品もかくやと。しかしおばあさま、セーラは自分の魅力を半端にしかわかっていないのであえて言わせてもらいたい。僕はコテで痛めてしまう危険を冒して髪を巻くよりも自然なさらさらストレートが好みですし、口紅もこんなに濃い赤ではなく淡いピンクが彼女に最も似合うと。なによりこの切れ長の眼はセーラが嫌いな勉強中に眠気と戦っている時の哀愁が――それはそれで可愛らしいのでありっちゃありなんですが――漂いまくりじゃないですかっ、口よりもものを言う大きくつぶらな瞳が最大の魅力なのに! あと彫の陰影が濃いですよっ、天真爛漫で可憐なセーラには少々相応しくません」
「全部にダメ出しじゃないか」
「まあ、いいんじゃないか」
「彼女の魅力を十分に表せていないだけでダメとは言っていませんよ、伯爵夫妻。絹を素肌に選んだのは当然ですし、この胸と腹が意味ありげに膨らんでいるのは彼女からのそういう心構えができたというメッセージでしょうから、願ったり叶ったりです」
「それは大奥さまの入れ知恵と誰かさんが抱きついた拍子に折ってしまった腰の補強と言う不可抗力ですよ、子爵さま」
「おっと、こうしちゃいられない。どうせ誰も居場所を教えてはくれないのでしょうから、さっさとセーラを迎えに行かないと」
的確に水を差す給仕係の指摘にも子爵は聞く耳を持たず、言う事は言い終えたと早々に台所を後にした。
「そんなところでマネキン抱えて何してるんですか、元ご主人さま?」
セーラの視線の先には言葉通り、マネキンをお姫さま抱っこした元ご主人さまが歩いていた。優雅に歩いているとはいえ、走っているのと遜色ないスピードのせいで彼の息はさすがに荒い。なのに表情だけは異様なほど爽やかさを保ったままだ。
店先のガラスに映っているのを見つけた時は、少しだけ他人のフリでやり過ごそうかなと思ったセーラだったが、その後ろに影のように付き従う男の形相も相まって、思わず振り返り声をかけずにはいられなかった。
セーラが声を出す半瞬前、吸い込んだ息に反応するように元ご主人さまは立ち止まり、一瞬にして距離を詰めた。その背後ではいつも以上の猛毒をこめ、魔王の如き眼がセーラを睨み下ろしてくる。
普段でさえ元ご主人さまと血の繋がった兄弟だとは外見では確信できない人。その口元は一歩間違えば自身の唇を噛み切るどころか顎が砕けんばかりに引き結ばれ、並々ならぬ怨念の籠った視線がこちらに降りかかってくる。
――いえ、怨念というより、正しくは嫌悪感により殺意をもよおしたが、むやみに原因を取り除けば自身にとって取り返しのつかない事態に発展するので耐えるしかなく、悪循環の内に徐々に寿命を削られる屈辱に憤慨している無念、と言ったほうが正しいかもしれない。
まるで蛆虫の如く湧いては増え、捨てて来てもいつのまにか手元に戻ってくるいわくつきの何かを蔑むような目だ。
もしかして呪いのマネキンかなにかで、元ご主人さまの手から離れなくなったとか?
それなら一大事。恩を売りつつうまいこと言いくるめ、引き取ったマネキンを物好きに売って小銭を稼いでみるのも一つの手だ。
「マネキンの譲り先をお探しですか?」
「セーラを探してたんじゃないかっ」
元ご主人さまの思わぬ気迫に目をぱちくりさせたセーラは「マネキン抱えてですか?」とは、一旦スルーしておこうと決めた。
「何が気に入らなくて屋敷を出てったの? 今すぐ戻ってきてくれたらお小遣いだって増やすし、セーラが苦手な礼儀作法の勉強時間を減らしてもいい。なにより僕が帰って来たからにはもう君の身の安全は保障されて……」
「(兄上の)貞操の危機は免れんがな」
「余計なことをっ――」
「え?」
うっすらと目元に涙を浮かべ、庇護欲をそそる化身となっていた元ご主人さまにしては不似合な、有無を言わさぬ鋭い声に隠れてしまったけれど、ていそうのきき、と聞こえた気がする。はて、なんのことやらセーラには思い当たることがない。
――低層の嬉々、かしら。そりゃ勝手に辞めたところをわざわざ連れ戻しに来てくれて、以前よりも良い待遇をするからとと言われれば、下層階級出身の小娘はそれこそ狂喜乱舞して喜びますけど。
「と、とにかく、何にも心配することはないから、帰っておいで」
「でもご主人さまの言いつけを守らないような者はお傍に居る者として失格です。出立前のお言葉の意図がまったくわからなくて……こんな能無し必要ないですよね?」
「そんなことはないよ。僕はセーラが傍に居てくれるだけで幸せなんだ」
器用にマネキンを抱えたまま、両手でセーラの手を取った元ご主人さまの瞳は熱を帯びいつになく色っぽい。そんな風に見つめられれば、二人の間に何があろうと、否がおうにも心臓が跳ねる。
「ご主人さま……」
「それにセーラが気後れするなら家に関するしがらみなんて捨て……」
元ご主人さまが一際真剣な表情になった。その途端、
「セーラ――」
と、無視することは宣戦布告を通りこし自身に対する殺人教唆を意味すると思わせる、野太く低い声が割って入った。
「は、はいっ!?」
ご主人さまに促されない限り滅多に話しかけてこなかった、名前を覚えてくれているのかさえ自信がなかった相手に呼ばれたとあって、背筋を正したセーラは元ご主人さまそっちのけで声がした方を向き直る。
「唐突だが人の名を騙りあたかも自分が慈悲深いと手柄を横取り、いいように年端のいかぬ少女を騙してきた男をどう思う?」
「最低じゃないですか」
セーラの手を握っていた力が弱まった。
「都合が悪くなったら自身の立場と役目ごと家を捨て、いたいけな弟にその全てを押し付け女の尻を追いかける男はどうだ?」
「1000年の恋も冷めますね」
セーラの手が自由になった。
「このまま結婚話が本格的にまとまらないなら、いっそ既成事実を作ってしまおうと己の欲求に素直な未来の子だくさん男は?」
「男として、いえ、人としてどうかと思います。遠巻きにも関わりたくありません」
セーラの目と鼻の先で、マネキンに覆いかぶさるようにして、死期が背後に迫ったかのごとく沈む元ご主人さまは顔を両手で覆ってしまった。
「そうか。こういうことをクランクフォード子爵ともあろう人間がすれば、麗しの黒バラ姫にも嫌われフラれてしまうのだろうな」
元ご主人さまの身体を透かし見ようというのか、マネキンの髪とドレスがはみ出す背に意味ありげな視線がちらりと向けられた。
本当に唐突な相談だなと思っていたセーラは、答えている間にまさか子爵の状況かとドン引きし始めたが、彼女の率直かつ辛辣な回答にも相手は満足げに頷くので疑問は尽きない。
「十中八九そうでしょうね」
なぜか、蜘蛛の糸ほどの期待に縋ろうとばかりに顔を恐る恐る上げた元ご主人さまが、世界の終りに片足をつっこんだように髪を逆立てて固まった。
どんなに繊細できめ細かい美顔でも、穴と言う穴を音のない悲鳴の余韻にひきつらせ、あまりにも生気が乏しくなれば銀髪が白髪に見えて一気に老け込んでしまうから不思議だ。
そんなに麗しの黒バラ姫と姻戚になりたかったのだろうか。挨拶もなしに出てきてしまった手前もあり、セーラは結局律儀にアドバイスをしてしまう。
「えーと、もうしばらく内緒にしておいて、暴露後も親愛関係が揺るがないよう頑張ればどうでしょう? もちろん手は無理やり出さずに」
元ご主人さまの顔が安堵にゆるんだ、かと思えば――
「それが最善かもしれないな。もうしばらくというのは十数年も経てばいいだろうか?」
という質問に、元ご主人さまの顔が残念なほどやつれた。
「いえ、それだと結婚適齢期を過ぎかねないので、長くても数年じゃないでしょうか」
「っ、まあ、そのくらいが妥当か」
元ご主人さまの顔には生気と笑顔が戻ったというのに、今、舌打ちしなかっただろうか、この超絶ブラコン男は。
何かがおかしいと思い始めたセーラだったが、その疑問を向けようとした先で「そういえば、誰かが何か言いかけていたような」と素知らぬ顔で促され、はっと頭を切り替えた。
「そうでした。元ご主人さまのお話ってなんでした?」
「い、いや、いいんだ。たいしたことじゃないよ……」
「いえ、元ご主人さまのことなら些細なことも無下には出来ません。どんなことでも仰って下さい」
「じゃあ、戻ってきて。今まで通り一緒に暮らしてほしいんだ、あと数年くらい」
「そんなこと、お安い御用です。お任せください」
ちょうど話に一区切りついて、ご主人さまを立たせようと大小の手が差し伸べられた。
大きい手にはすかさずマネキンが押し付けられた。もう一方の小さな手はがっちりと握られ、歩き出してもいっこうに解かれることがなく、繋いだまま屋敷へと戻ることになった。
仲良く歩く二人の背後では、ずずず…………ずず……ずっ――と、まるで地獄の亡者が這いながら追いかけてくるような音が絶えない。
「あの、ご主人さま? あのマネキンですけど……」
セーラは繋いでいる手を引き、こっそりとご主人さまに背後を見てと促した。
ドレスを着たマネキンはウェストの切り替えし部分を指で掴まれ運ばれていて、案の定、爪先代わりのマネキン台とドレスの裾が盛大に引きずられている。
セーラの助言とも言えない助言を素直に聞く必要もないのだけれど、どうやら結婚がしばしお預けとなったらしい今、子爵さまには待ち焦がれる黒バラ姫とただのマネキンを同じ扱いに、とはいかなかったようだ。
「ああ、あれ……、よくできてると思うけど、やっぱり本物のほうがもっと魅力に溢れて可愛らしいんだ」
「そうですか、それは力及びませんで」
まあ、誰も気にしていないなら、自分がぶつくさ言ってもしょうがない。なんといってもウェディングドレスは晴れの舞台で花嫁を飾るもの。まだ体型が変化しそうだと言っていた黒バラ姫のこともあるし、なにより流行もおさえたいのだとしたら、どっちみち別のデザインで作り直すことになるだろう。
それに、傍に居たい相手がわざわざ迎えに来てくれたのだ。今くらいは変な好奇心を働かせずに、些細な幸せを堪能したい。
例外なく交互する二人分の指。
セーラはご主人さまの指を挟む自分のそれに、こっそりと力を込めた。
タイトルの半分に偽りなし!とはいえ……恋だの何だので盛り上がることはなく、なんか、読んでいただくのが申し訳なくなる話でした。
それでも一話目と比べてほんの少しはセーラとご主人さまの距離が縮んだ(?)と思ってもらえたら嬉しいです。
自分自身、通しで読むのが恐ろしいのに、ここまでおつきあいくださった方、ありがとうございました。




