小学一年生 1
俺が初めて本格的に人と接触をし、お母さんの元を離れることになったのは小学一年の頃だった。
何もかも理解に苦しむと同時に、何もかもが新しくなった時だった。
まだ若いころの母親と手をつなぎながら、異常なまで広い校庭を校門から見渡した時はワクワクした。
ここで新しい友達ができると頭の中で毎日遊ぶ妄想もした。
「ここが学校だよ」
お母さんは俺の目をまっすぐ見つめて言ってくれた。
最初に出会ったのは、お母さんよりも背の高い知らないおじさんだった。
お母さんはこの人を”先生”だと言っていた、だから単純に信じた。
小さいころから他人には内気な性格なこともあって、”先生”にうまく挨拶できなかったことをよく覚えている。
片言の日本語で唯一口から発せたのは「サヨナラ」という、映画で聞いた日本語の言葉だった。
お母さんは何度も日本語を教えてくれたが、その言葉は左耳から入り、右耳から出ていった。
「それで、こちらが図書室になります」
もちろんこの文も全く理解できなかったが、先生と呼ばれた男の声を聞き、周りを見てそうなんだろうと勝手に解釈した。
彼が見せてくれたのは壁丸ごとが本棚になった四角い部屋で、床は畳になっており、上履きを脱いで上がる必要があった。
異国語で書かれた本たちを見つめていると、先生と呼ばれるおじさんは膝を地面につけ、適当な本を手に取り、俺に手渡してきた。
「この本、面白いよ」
たぶん、そんなことを言っていた。でも、俺はまるでボーっとした動物かのように彼を見つめて、言葉の意味を頭の中で考えていた。
おじさんはそのまま立ち上がり、お母さんのところまで歩いていき、二人で何か話をし始めた。
「gostou daqui?」
お母さんは聞く。
俺は、
「sim」
とつぶやくように言って、頭を上下に振った。
頭を上下に振れば、日本人のおじさんも分かると思ったからだ。
今思えば、ローマ字すらない場所でどう生きるつもりだったのか分からない。
子供の余裕だったのかもしれない。単純に馬鹿だったのかもしれない。
全く先のことを考えず、俺は母親にその日
「ここで勉強がしたい」
と、素直に伝えてしまった。
先生は母親から俺の言葉を聞くと、大きな笑みを浮かべて俺たちを違う部屋に案内した。
そこは教室だった。
たくさんの机が並べられた大きな部屋だった。壁には、知らない子供たちの絵や工作が無数に飾られていた。机の傷、地面におちた消しゴム、外の夕暮れ…
そこにあるもの全部が、初めて見る世界の一部みたいだった。
でも、立ち止まってはいられない俺にはその面白さもすぐに違う物へと移った。
とても長い廊下をとても速く走れたら人気になれるのだろうか。
「vai ser aqui mesmo?」
学校の風景に気をとられていると、お母さんが俺に話しかけてきた。
「nao sei」
と、無邪気に答えた。
外はすでに暗くなり、お母さんと手をつないだまま校門を出て、先生にサヨナラを言った。
来週からは全く新しい生活が待っていると知ると、帰り道、俺はずっと笑っていた。
まだ、在日ブラジル学校を出たばかりの俺は心の奥に過去の友達を思うところもあった。
でも、出てきた期間が短すぎたせいで、実感がわかなかった。
毎日バスに乗って、1時間の通学をしなくても、これからは5分歩けば学校につくことになる。
それは、お母さんが最初に伝えてくれたとても大事なことだった。
少なくとも、彼女は大事だと言っていた。




