第六章 選択編 第22話 放置は罪か
眠れない夜は、王にも来る。
それが意外だと思う者もいるだろう。王とは巨大な寝台の上で、世界の不安から守られて眠る存在だと。だが実際には逆だ。誰もが眠れるように見せかけるために、眠れない者がいる。アリアにとって、この数週間はまさにそうだった。
帝都の離宮は静かだった。石造りの廊下は深夜になると足音を吸い込み、燭台の火もほとんど揺れない。侍女も衛兵も、今はできる限り遠ざけてある。だが静けさとは、時に思考を逃がさないための器でもある。寝台に入って目を閉じても、各地から届いた報告の一文一文が、暗闇の中で浮かび上がる。
共同備蓄庫襲撃。
私刑未遂。
責任者を明示せよ。
王は何を背負うのか。
彼女はとうとう起き上がり、裸足のまま窓辺へ歩いた。夜空には雲がかかり、星はほとんど見えない。庭園の木々だけが黒い輪郭で並んでいる。
放置は罪か。
その問いは、今まで何度も耳にした非難の言い換えではない。
もっと静かで、もっと内側から聞こえてくる声だった。
彼女は、自分が何を目指していたのかを知っている。
王がすべてを決める国は、民を従順にはするが、成熟はさせない。
選ぶこと、迷うこと、責任を共有すること。
それを人々が自分の暮らしの中で学ぶ余白を作りたかった。
その理想は今も嘘ではない。
だが理想が正しいとして、それが目の前の痛みを免罪するわけではない。
窓硝子に映る自分の顔は、思っていたより疲れていた。
「……私は、逃げていたのかしら」
誰に聞かせるでもなく呟く。
命令することから。
命令した結果を背負うことから。
あるいは、人々が自分の判断で傷つく場面に手を出してしまう誘惑から。
どれも少しずつ本当で、だから一つだけ否定することができない。
彼女は机へ戻り、灯火を点した。
紙の山がやわらかな黄色に照らされる。
その中から、最初期の布告案の写しを取り出した。
王はすべてを裁可しない。
地方は土地の実情に即した判断を行い、その記録を残せ。
読み返すと、その文はまだ美しかった。
美しいということは、時に余分を削りすぎているということでもある。
何が抜けていたのか。
今ならわかる。
失敗した時にどうするか。
誰が、どの順番で、どこまで引き受けるのか。
選ばせる仕組みは示した。
だが選んだあと、崩れた時の支えを示していなかった。
それは放置ではない、と言い張ることはできる。
だが、支えのない自由がどこまで人を追い詰めるかを見誤ったなら、それは王の失策だ。
夜明け前、エリオンが呼ばれて部屋へ来た時、アリアはまだ机に向かっていた。
彼は無言でその顔を見て、すぐに言った。
「寝ていないな」
「少しだけ」
「嘘だ」
アリアは苦く笑った。
こんな時にまで遠慮のない男だと思う。
だが、その遠慮のなさに救われる時もある。
「あなたの言った通りかもしれない」彼女は言った。
「どのあたりが」
「私は“命じたくない”んじゃなくて、命じた結果を怖れていたのかもしれない」
エリオンは椅子を引き、向かいに座った。
勝ち誇る顔はしない。
そこが彼のいいところでもあり、腹の立つところでもある。
「それで?」
「でも、だからといって全部を決める王に戻る気はないわ」
「当然だ」
「当然なの?」
「今さら戻れない。戻れば、今までの痛みが全部“無駄な実験”になる」
その言葉は厳しいが、慰めでもあった。
進めない理由だけでなく、戻れない理由もまた明確なのだ。
「ならどうする」
アリアは手元の紙へ視線を落とした。
「選択そのものには介入しない。でも、選択の条件と、失敗した時の手順には介入する」
エリオンは少し黙ったあと、頷いた。
「ようやくそこに来たか」
「遅かった?」
「遅い。だがまだ間に合うかもしれない」
彼女はその“かもしれない”に安堵しなかった。
間に合う保証ではない。
ただ、まだ打てる手があるということにすぎない。
「放置は罪か、って考えていた」アリアが言う。
「答えは?」
「放置そのものが罪かどうかはわからない。でも、放置のつもりがなくても、結果として支えを置かなかったなら責任はある」
「それで十分だ」
「十分?」
「王が次に動く理由としてはな」
窓の外がわずかに白み始めていた。
夜は終わる。
だが、問いが消えるわけではない。
ただアリアは初めて、その問いに対して逃げずに答えようとしていた。




