第六章 選択編 第21話 王を呼ぶ声
帝都に向かう街道は、いつも王へ繋がっているわけではない。
税を運ぶ荷車も通る。兵の移動もある。婚礼の使者や巡礼の群れも通る。だが国が揺れる時、その道は急に別の意味を持ち始める。王へ届くための道。あるいは王を引きずり下ろすほどの不満を、紙と口伝で運ぶ道。誰かが「これはもう地方だけの話ではない」と言い始めた瞬間から、街道は政治の血管になる。
リズヴァンの倉庫襲撃と私刑未遂の報せは、単なる事件報告にとどまらなかった。
その後を追うように、各地から帝都へ請願書が集まり始めた。文面は様々だった。
共同備蓄の管理基準を一律に定めよ。
穀物流通を中央が再統制せよ。
地方判断の限界を認め、王権による裁定を回復せよ。
もっと露骨なものもある。
王は何をしているのか。
民が自ら決めよというなら、その結果に対し王は責任を負わぬのか。
沈黙もまた罪ではないのか。
紙の上の言葉は礼儀正しい。
だが、その奥にあるのは怒りと、縋る気分の入り混じった濁りだった。
ミレスにもその気配は遅れて届いた。
市場では、もう遠い町の暴動を噂として消費するだけでは済まない空気が広がっている。
王へ訴えるべきだ。
いや、今さら何を訴える。
王が決めないからこんなことになった。
だからこそ、最後は王に決めさせるしかない。
矛盾している。
だが人の心は、追い詰められるほど矛盾を平気で抱える。
倉庫の二階では、その夜、いつもより遅い時間まで討議が続いた。油灯の火は低く、空気は熱を失っているのに、人の声だけが乾いて響く。
「帝都へ正式に書簡を出そう」
そう言ったのは肉屋だった。彼はこれまで中央への反発を隠そうとしなかったが、今夜の声には妙な疲れがあった。
「何を求めるの」リュシアが尋ねる。
「最終判断だよ。最低限の基準でもいい。とにかく“王が何も言わない”のはもう無理だ」
「王が言えば、みんな納得すると思ってるの?」
「納得しなくても、少なくとも従う理由にはなる」
その言葉に、場のあちこちで小さな頷きが起きた。
レオネルはそれを見て、胸の奥が重く沈むのを感じた。
従う理由。
今、人々が欲しがっているのは、正しさよりも、従ってよいという許しなのかもしれない。
「それって、戻るってことじゃないのか」若い荷運び人が言った。「前みたいに、上が決めて、俺たちはあとで文句を言うだけに」
「それの何が悪い」皮なめし職人が返す。「少なくとも今みたいに、皆が中途半端に責め合うよりはましだ」
その瞬間、イリサは指先を膝の上で握りしめた。
前の方が楽だった。
その言葉が、最近はもう冗談ではなくなっている。
彼女自身だって、時々そう思う。
自分の一言が議論を動かしたあの夜の手応えはまだ覚えている。
だが今は、その一言一言が積み上がった先に、遠い町で縄が揺れている。
「王に書くなら」とネヴィルが言った。「ただ助けを求めるだけじゃなく、今の状況を具体的に伝えるべきです。何が混乱を生み、どこで判断が詰まり、何が不足しているのか」
「そんな理屈っぽい手紙、読むのか?」肉屋が言う。
「読ませるために書くんです」
「読む前に飢えるかもしれん」
「それでも、怒鳴るだけよりましよ」
リュシアがそう支えると、場はしばらく考え込むような沈黙に沈んだ。
王を呼ぶ声は、ただの叫びでは足りない。
少なくとも、そう信じたい者たちがまだここにはいる。
結局その夜、ミレスとしても帝都へ意見書をまとめる方向が決まった。役所からの正式報告とは別に、討議所の場からも、人々の不安と要望を文章にして送る。何を求めるのかはなおまとまりきらない。中央統制の回復か、最低限の指針か、流通支援か、責任の線引きか。だが一つだけは皆が認めざるを得なかった。
もう、王を議論の外に置いておくことはできない。
翌朝、役所ではちょうど同じような議論が起きていた。帝都へ追加詳報を出すにあたり、文官たちの意見が割れている。
「今は救済策の指示を仰ぐべきだ」ベネディクトが言う。「現場の自由度をこれ以上広げるのは危険だ」
「全面的な統制回帰を求めるんですか」レオネルが問う。
「少なくとも、備蓄と流通に関しては中央の裁定が必要です。そうでなければ各地が自分の都合で抱え込む」
「だが、中央が全て把握できるわけでもない」
「把握しきれなくても、視野の広さは地方よりましだ」
その理屈は否定しがたい。
レオネルももう、数週間前のように“地方が考えること自体の価値”だけを頼りにはできなくなっていた。
昼過ぎ、ネヴィルは討議所の意見書の下書きを抱えて役所へ来た。住民の言葉をできるだけ削らずにまとめたものだ。読み上げると、ベネディクトが眉を寄せる。
「感情的すぎる」
「感情を抜いたら、何が苦しいのか見えません」
「役所の文に感情は不要だ」
「でも、今はその感情で町が動いています」
ネヴィルの声は静かだったが、以前よりはっきりしていた。
記録してきた者は、いつか自分の言葉を持つ。
それがこの章の変化の一つでもある。
その夜、宿ではアリアのもとへ各地の請願要旨が山のように届いていた。机の端から端まで紙が広がり、風で一枚めくれるたび、別の土地の焦りが顔を出す。
「呼ばれてるな」エリオンが言う。
「ええ」
「望んでいただろう、人々が自分の声を持つことを」
「ええ」
「今、その声がお前を呼んでいる」
アリアは一枚の請願書を手に取った。
字は荒く、文法も乱れている。
だが最後の一文だけは妙に整っていた。
王が決めぬなら、王は何を背負うのか。
彼女はしばらくその文字を見つめたまま動かなかった。
「答えられるか」エリオンが問う。
「答えなきゃいけないわね」
「言葉だけじゃ足りないぞ」
「わかってる」
窓の外では、夜風が帝都の塔のあいだを抜けていた。
王を呼ぶ声は、ようやく彼女のところまで届いた。
それは救いを求める声であると同時に、裁きを求める声でもある。
その両方に向き合う時が、もう来ていた。




