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灰冠(はいかん)の大陸アルメリア  作者: たむ


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第六章 選択編 第15話 自由を嫌う者たち

 最初にそれを口にしたのは、町の古道具屋の主人だった。


「前の方がまだ楽だったな」


 昼下がりの市場で、彼は古びた秤を布で拭きながら、誰に向けるでもなくそう呟いた。近くにいた客の女が「何が」と尋ねると、主人は肩をすくめる。


「決めることが少なかった。文句は言えたが、せめて上が何か決めていた」


 その場では、それだけの話だった。

 だがその言葉は妙に人の口に馴染んだ。

 夕方には別の路地で、夜には居酒屋で、翌日には役所の廊下で、形を少しずつ変えながら広がっていく。

 前の方がましだった。

 少なくとも、こんなに考えなくてよかった。

 今の方が息苦しい。

 自由とは、最初に聞こえたほど軽やかなものではなかった。


 ミレスで段階的備蓄放出が続く一方、対象外となる家々の苛立ちは確実に募っていた。討議所で決めた基準は公開され、記録も見られるようにしている。透明であることは、隠し事の不信を減らすために必要だった。だが透明であればあるほど、自分がそこから漏れた理由もまた透明になる。


「うちは貧しくないってか?」


「子どもが一人少ないだけで後回しか?」


「働ける家だって苦しいんだぞ」


 そうした声は、制度を壊すほどではない。

 だが制度に対する好意を少しずつ削るには十分だった。


 討議所でも、以前のような手探りの熱とは別の空気が混じり始める。

 面倒くさい。

 ややこしい。

 結局、誰かが勝手に決めればいい。

 そんな投げやりな言葉が、冗談半分の顔をして滑り込んでくる。


「自由ってのは、暇な奴の道楽かもしれんな」


 肉屋がそんなことを言い、周囲に苦笑が広がった。

 だが誰も強く否定しなかった。

 それが冗談だけで済まない気分を、皆どこかで共有し始めていたからだ。


 リュシアはその夜、いつもより強い声で言った。


「忘れないで。前は前で、決まるまで何もできないことだらけだったでしょう」


「でも今は決めても楽にならない」皮なめし職人が返す。


「楽になるために決めてるんじゃない」


「じゃあ何のためだ」


 その問いは、場の中心に落ちた。


 リュシアはすぐに答えられなかった。

 正しいことのため。

 後でやり直せるようにするため。

 王に頼りきらないため。

 どれも嘘ではない。

 だが、今腹を空かせている者に、それがどれほど届くかは別だった。


 結局、答えたのは意外にもイリサだった。


「……自分で選んだって言えるため、じゃないですか」


 皆が彼女を見る。

 彼女は少し怯んだが、続けた。


「うまくいかなくても、いや、うまくいかないことの方が多いのかもしれないけど。でも全部を誰かに決められて、あとで文句を言うだけよりは……たぶん」


「たぶん、か」肉屋が笑う。


「たぶんです」


 その弱さが、逆に場を静かにした。

 立派すぎる言葉より、確信の足りない本音の方が人の耳に残ることがある。


 それでも、“自由を嫌う気分”は消えなかった。

 むしろそれは、正論を聞いたあとでいっそう濃くなる種類の感情だった。


 役所では、中央統制の再強化を求める意見書が少しずつ増え始めていた。

 地方判断は限界がある。

 最低限の基準は帝都が示すべきだ。

 備蓄、税、治水、配給、すべてにおいて“最終判断権”を中央が明確にせよ。

 そうした文面は穏当だが、その底にあるのは疲れだった。

 自由より安定。

 責任より指示。

 それを選びたくなる疲れ。


 レオネルはそれらの意見書を整理しながら、自分の中にも似た気分が芽生えているのを認めざるを得なかった。

 朝から晩まで判断が続く。

 しかも、どの判断も完全には正しくない。

 以前なら帝都の遅さに苛立ちながらも、最後には“上の裁可”があった。

 今はそれがない。

 紙の白さが、そのままこちらへ返ってくる。


 夜、彼は役所の裏庭で一人立っていた。灯りの消えた窓が並び、遠くからは討議所のざわめきがかすかに届く。そこへマイナが帳簿を抱えたまま出てきた。


「珍しい顔ね」


「どんな顔です」


「やめたい人の顔」


 レオネルは苦笑した。

 否定できなかった。


「前の方が楽だったかもしれません」


 ぽつりとそう言うと、マイナはすぐには返さなかった。

 しばらく庭木の影を見てから、静かに言う。


「そうね。楽だったでしょう」


「……」


「でも、楽だったことと、よかったことは違うわ」


 その言葉は、慰めではなく確認のようだった。


「今は皆、自由が嫌いになりかけてる。正確には、自由に付いてくる面倒さが嫌なのよ。自由そのものを愛せる人なんて少ない」


「それでも続ける価値があると?」


「あるかもしれないし、ないかもしれない」


 彼女は珍しく曖昧に言った。


「ただ、前に戻すのは簡単よ。だからこそ、戻す前に少しだけ我慢して見た方がいいこともある」


 レオネルはその横顔を見た。

 マイナはいつも現実的で、夢を語らない。

 そんな彼女が“少しだけ我慢して見た方がいい”と言うことに、かえって重みがあった。


 その頃、宿ではアリアもまた似た報せを受けていた。

 地方から上がる意見書。

 自由な判断への反発。

 王の責任を求める声の下準備。

 エリオンがそれを読み上げ終えると、部屋には短い沈黙が落ちた。


「嫌われ始めたな、お前の風は」


 彼の言葉に、アリアは小さく息を吐いた。


「風は、髪を揺らす時だけ好かれるものじゃないわ」


「砂も巻き上げるし、寒さも運ぶ」


「ええ」


「それでも、吹かせ続けるのか」


 アリアはしばらく黙り、やがて答えた。


「吹かせる、というより……もう吹いてしまったのよ」


 王が決めないという一歩は、紙の上の布告では終わらない。

 人の暮らしに入り込み、疲れと怒りと後悔を連れてくる。

 それを知った上でなお進むのか。

 その問いに、彼女はまだ完全な答えを持っていなかった。

 だが少なくとも、自由を嫌い始めた人々の気分から目を逸らすつもりはなかった。


 市場では翌朝も、誰かが言うだろう。

 前の方がよかった。

 そして別の誰かが、声は小さくてもこう返すかもしれない。

 それでも今の方が、自分で選んでいる。


 その二つの声のあいだで、第六章の第二幕はさらに深く裂けていく。

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